四旬節第4主日(A年)の説教=ヨハネ9.1~41
2014年3月30日
幼稚園におきましては、この時期、年度末の慌ただしさとともに、新年度の入園児の面接が行われます。転勤で新たに地元にいらっしゃった方、転入児など、人によってその環境は違いますが、わたしたちの幼稚園に来ていただくことはありがたいことです。保護者の時間帯に合わせて面接の時間を取るようにしています。
先日、親子で面接をしていた時、「家庭状況調査票」なるものがありまして、その一項に「お子さまの長所、短所」の項があるんです。いまどき、このような項目はどうしたものかと思うんですが、幼稚園から出した書類ですので、親御さんは正直に書かれます。
短所の内容を見て、一言わたしは言いました。「お子さんのもっているものはみな長所です」と。足りないところ、弱いところは誰にでもあります。しかし、それ自体は悪いこと(短所)ではないでしょう。単に、足りないか、弱いだけなんです。3歳前後で人が決められるなんてあまりにもかわいそうな気がします。「しつけ」の名のもとに、日本人の生来持っている素晴らしい素材が消されてしまう教育が、未だに続いているような気がしてなりません。
今日、福音書に登場する一人の目の見えない人は、素直に、癒しのために遣わされたイエスさまを受け入れました。それに比して「指導者階級」の人はそれを拒んだのです。イエスさまを否定した頑なさが「罪」なのです。神のあわれみを受けるのに何も条件は出されていません。それなのに、ファリサイ派の人びとはあえてそれを拒むのです。なぜ?それは、彼らが持っていると思い、だからこそ、こだわっている律法に関する正しい(?)知識が邪魔をしているのです。
それに比べて、癒された人は、目が見えるようになったという体験に立って、イエスさまを神から来られた方として受け入れるのです。知識とかそこからくる常識の世界にだけこだわると、神からの「しるし」に気づくことなどとうていできない業です。ところが、癒された人は、その目が開かれていくのです。その過程が示されています。ファリザイ派の人との問答の中にみることができます。
そこには「あの人」(15節)で始まったイエスさまの呼び方が、「預言者」(17節)「神のもとから来た人」(33節)、最後に「主よ」(38節)という体の目が開かれ、イエスさまを信じ、受け入れる信仰告白に達するのです。盲人の方にとって、癒しがそのまま、信仰の道になりました。「主よ、信じます」と。
今を生きているわたしたちは、「あの過去のせいでこうなったのだ」といって、自ら生きる道を塞いではいないでしょうか。マイナスイメージだけが膨らんでいく毎日。こうした経験がおありでしょうか。そのたびに思います。「やはりだめだ」ではなく、「また新しいスタートだ」と。終わりは神が準備してくれます。自分で作る必要はないのです。神のわざ、はからいに気づくために。
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