年間第31主日(A年)の説教=マタイ23・1~12
2017年11月5日
人が集まるところには「権威」が出現する
人間が集まるところには、そして、その数が多くなると、それに比例して「権威」が出現し、役割の違いが(上下関係も)鮮明化し、権威を盾に指導者が登場してきます。家庭においても、学校においても、会社においても、その規模は違っても同じように権威を持った人がいて、指導する立場に立つ人がいるものです。
その人の権威と指導内容が、集まっている人々がみな、納得のいく素晴らしいものであれば、みなが豊かになり、幸せ感を抱いて安心して過ごしていけます。そうでなかったとき、まさに悲惨な状態に落ち込んでしまいます。
皆が納得できる「権威」なら良いのだが・・・
またしても新しい表現に出くわしました。(讀賣新聞大阪本社、2017年10月28日夕刊)「教育虐待」という表現です。なんとなくわかるような気もしますが・・。「わが子のために」と思って、教育に熱を入れすぎる親御さんは少なくありません。その結果、勉強などで子どもが追い詰められ、心を病んだり、シェルターに逃げ込んだりする事案が報告されています。ここ数年、行き過ぎたこうした親の行為を「教育虐待」と呼び、注意を呼び掛けている動きが出ているそうです。
親の行き過ぎた行為「教育虐待」もあると聞く
家出少女らを保護する民間シェルター「カリヨン子どもセンター」(東京)があります。2004年の開所以来、「親の過度な教育」が原因で入所した高校生らが約20人いたといいます。「このままでは母を殺してしまう」と思い詰めた高校生、全地球測位システム(GPS)で監視されていた高校生がいたようです。学校の教師、親御さんにしましたら、すべて子どものために「良かれ」と思って、いろいろな指導をし、お世話を焼かれるのであろうと思います。
「こうあって欲しい」という親の欲求が背景に
武蔵大の武田信子教授(教育心理学)は、教育虐待の特徴について「子どものためと言いながら、本当は『こうあってほしい』という親の欲求が行動の背景にある」と指摘しています。そして、親は、その欲求が満たされない時、子どもが耐えられないほどのストレスや心身の罰を与えるという行動に至ってしまうといいます。こうした環境で育つと、子どもは自己肯定感が低く、成人後も精神的な後遺症が残ることがあるそうです。ある大人になった女性は「母の要求に応えられないわたしが悪いと思い、ずっと苦しかった」と告白しています。
人にとっては、他者に負けたくないという気持ちが、前に進むエネルギーになっている場合があります。単に、「負けず嫌い」というのではなく、より探求心が高められていくのです。
一方では、人の上に立ちたい願望が強い人もいる
一方で、中には、単に、人の上に立つ魅力に取り付かれてしまう人もあります。確かに、人の上に立つということは魅力があります。程度の違いはあるでしょうが、人間、皆の中に潜在的にある思いではないでしょうか。
その思いが好ましくない形であらわれたのが今日の福音の話でしょうか。つまり、人間の中にエゴイズムが存在する限り、堕落していきやすくなるものであることが示されています。権威があって指導していくこと自体は、悪いことではなく、とてもいいことであり、大いに助けになることでもあります。その権威を執行するその人によって、活用の仕方によって、その中身が変化してしまうのです。
イエスさまは言われます。「律法学者やファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らの言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いを見ならってはならない。・・・その行いはすべて、人に見せるためのものである」と。彼らのゆがんだ権威とそこから生まれてくる間違った指導内容を指摘しています。民衆に正しいことを言ってはいるんですが、「彼らは口先だけで、実行しないからである」というわけです。
権威は世俗的な名声のために使ってはならない
イエスさまが心配し、呼びかけているのは、わたしたちも、権威ある立場にある人は注意しなさいよ、と。そして、権威とその活用に当たっては、世俗的な名誉と名声を得るためだけに走ってはいませんか、と。
本来的には、「権威」は、その人に託された役割に、よりよく奉仕ができるように付与されているものではないでしょうか。奉仕ができるための力、エネルギーなのです。したがって、むしろ謙虚になり、ひたむきな姿勢が表面化してもおかしくないのでしょう。その様が世間的にはひ弱さを与えたとしても、・・・。これが、外面的にはイエスさまの姿でもありました。イエスさまの裏付けがある本物の「権威」を求めていきたいです。
「教育虐待」の始まりの「権威」は、はたしてどこに、・・・?!
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