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主の昇天

2024年/B年の説教=あなたの言葉は「わたし」の道の光

主の昇天:世界の嘆き、自分の隣の人の苦しみ・叫びに敏感でありたい

教会は地球上のすべての被造物に対する責任があります。福音を宣べ伝えることは、一人間の信念やイデオロギーを伝えることではありません。イエスを伝えること、それだけです。そのためにも、世界の嘆きと苦しみの叫びをききとれる感性を豊かにしたいものです。
2023年/A年説教=み言葉は「救い」の見極め

主の昇天は、別れであるとともに、「わたし」の信仰、救いに目覚めるとき

主の昇天は、別れであるとともに、「わたし」の信仰、救いに目覚めるときでもあります。そのためにも、人とのかかわり、「出会い」はすべてにおいて「わたし」に必要です。そして、大切です。
2022年/C年説教=弱き者を救う神

主の昇天:各自がキリストの証人であることを意識させる『目覚めの祝日』

イエスが弟子たちに促し、命じているのは、日常の生活現場での意識転換であり、誰もが取り組めること。主の昇天は、わたしたち一人ひとりに生ぬるい生き方から、キリストの証人であることを意識させる『目覚めの祝日』です。
2021年/B年説教=新しいいのちの輝き

主の昇天:わたしたちの言葉、行いは空虚ではない。真実なものである

イエスのよき仲介者となるために、日々、精一杯生きたいものです。イエスは「信じる者には次のようなしるしが伴う」と言って、わたしたちの言葉、行いが空虚なものではなく真実なものであることを保証してくださっています。
2020年/A年説教=応えていますか、いつも

主の昇天:イエスとの別れ(昇天)の次にやってくるもの、それは・・・

人は自分以外の誰かに支えられ、励ましを受け、確かな自分を形成していきます。ウイルスの後にやってくるのは「恐怖」ではなく「和合」であり「安らぎ」であってほしいものです。それは、わたしたち一人ひとりにかかっています。
2018年/B年説教=神への道標

主の昇天:イエスの救いの業の継承は弟子たちへ、そして、今の私たちへ

福音宣教することは、自分の人間的な信念やイデオロギーを伝え、広めることではない。あくまでも、イエスさまを伝えることであり、イエスさまに人々を出会わせることにあります。世界の人々は、嘆きの叫びをあげて救いの訪れ、福音を待っているのです。
2017年/A年説教=神のふところ

主の昇天:イエスはいつの時代も、誰にとっても「イクボス」(理解と配慮のある方)です

「わたしが去っていくのは、あなたがたにとって有益である」(ヨハネ16章7節)その上で、聖霊の注ぎによって、自立への道を弟子たちに準備なさいます。イエスさまはいなくなったのですから、「見ないで信じる信仰」へと弟子たちを招かれるのです。
2015年/B年説教=イエスのこころ

主の昇天は、イエスさまから「聖霊」へのバトンタッチが実現した日です

イエスさまは弟子たちの不信仰をお咎めになりながらも、「全世界に行き、すべての者に福音を宣べ伝えなさい」とお命じになります。不利な条件、不都合なことがあっても、「前を向きなさい」と励まされるのです。
2016年/C年説教=神のぬくもり

主の昇天は、イエスが私たちに託された使命に目覚める転機

わたしたちは例外なく、「信仰の目」で見たことを語り継ぐあかし人なのです。そして、お互いの生き方の「転機」となるような存在者になっていきたいです。
2014年/A年説教=神のたしかさ

主の昇天:DNAが人の数だけあるようにイエスの恵みも多様

主の昇天(A年)の説教=マタイ28.16~202014年6月1日わたしたちの「DNA」に、同じなものは一つとしてないということが、とても不思議に思います。専門家にとっては当たり前のことでしょうが、・・・。
2012年/B年説教=主との出会い

主の昇天:周囲の方々の嘆き節に敏感になれる感性を培う

「福音を宣べ伝える」ということは、その人の信念やイデオロギーを伝えるということではなく、「イエスさまご自身」を伝え、イエスさまとの出会いへと人々を招いて行くことです。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

主の昇天:見えないが別の形で「共にいる」から心配無用

主の昇天(C年)の説教=ルカ24.46~532013年5月12日わたしたち人間は、等しく、例外なく、限られた時間の中で生活しています。そして、この生き方を楽しむように向けられています。時の移り変わりの中で生きている限り、いつかは終焉の時が来...
2019年/C年説教=召ばれています、いつも

主の昇天:節目を大切に!転機に際しては「神の愛」を中心に据えてほしい

主の昇天は弟子たちにとって大きな転換期となりました。わたしたちの日常でも、このような転換期はあります。どのように感じ、意識しているのでしょう。弟子たちは、神に生きる中心をおくことができました。わたしたちは完全にできなくても、少なくとも、その方に向かおうとして祈り、動いているでしょうか。
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