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四旬節第5主日:イエスが全身全霊でわたしたちに示す神の思いとは?

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四旬節第5主日(A年)の説教⇒2026/3/22

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

四旬節第5主日(A年)の説教=ヨハネ11・1~45

2026年3月22日

彼岸の入りの17日、鹿児島県内は春の陽気に包まれ、最高気温は鹿児島市の20‣3度など、県内33地点のうち県本土4地点を含む14地点で20度を超えました。各地の墓地では、墓石をていねいに清め、先祖に手を合わせる人の姿が見られました。鹿児島市郡元町の露重墓地に足を運んだ近くの池田輝夫さん(78歳)夫妻は、「お参りに来られるのが元気な証拠。感謝しこれからも続けたい」と話されます。(南日本新聞2026年3月18日朝刊)

誰でも「死」を避けることはできません。しかも、世の富・金銀その他の資産・名誉等を、あの世に携えていくこともできません。とにかく、わが命を神に返すとき、いわゆる、無一物になってしまうのです。

また、その死のあり方も様々です。最近では、空気の乾燥による住宅火災による死者が多くなりました。また先日は、平和学習の一環として沖縄に修学旅行に行った高校生が、舟の転覆事故によって亡くなられました。その船の船長も亡くなられたということです。

「『11管によると、2隻の遭難場所はほぼ同じで断続的に高い波が生じていたとみられる。浅瀬のサンゴ礁に波がぶつかるとせり上がり、高くなりやすい。海保職員がゴムボートから2隻に注意を呼びかけていた。同志社国際高校の生徒18人と乗組員3人は、米軍普天間飛行場の移設工事現場の見学中だった。同志社国際中学‣高校の西田喜久夫校長らは17日記者会見し、当時出ていた波浪注意報に関し(船長側から)言及がなかった。出航への疑念、心配はなかった』と述べた。」と報道されています。(同上掲紙)

この事故後、同中‣高校の西田喜久夫校長は、記者会見の席で「不慮の事故により亡くなったことを心よりお詫び申し上げる」と深々と頭を下げ「悔やんでも悔やみきれない」とうつむかれたそうです。そして、再発防止のため、高校の運営法人が月内をめどに、外部有識者の第三委員会を設置する方針も示されています。

身近な愛する人、親、兄弟、子ども等、関りが濃い人との別れは、それこそ「悔やんでも悔やみきれない」別れになるのではないでしょうか。

今日の福音書では、マリア、マルタ、ラザロという、イエスも親しい関係にある兄弟姉妹の話です。きょうの話の頂点は、マルタのイエスに対する信仰告白にあるようです。マルタもわたしたちと同じ人間です。その変化に注目したいです。

四旬節第5主日:わたしは復活、命である。信じる者は、死んでも生きる
四旬節第5主日(A年)の福音=ヨハネ11・1~45 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。

イエスは親しい友であるラザロが病気にかかっていることを聞き、なんとも冷ややかな反応を示されます。

「イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』」冷静というよりも、人間的過ぎるかもしれませんが、なんとも冷酷な非人情的な対応だなと感じてしまいます。普通に考えますと、死に至る病だとわかれば、やきもきするばかりで落ちつきませんよね。

イエスが上述の言葉を言われた時、この言葉の真意を理解できた人がいたでしょうか。いなかったことでしょう。だからこそ、イエスの言葉から感じられるのは、イエスの神性がうかがえるのです。そしてイエスは、ラザロを生き返らせることによって、人の苦しみに無関心ではいられない神の心を人々に示し、神の栄光を現します。その死という事実の前にわたしたち人間は無力です。わたしたちは死という現実を覆す力を持ち合わせてはいません。

わたしたち人間にはどうしようもない絶望と悲しみをもたらす死が、イエスにとっては「神の栄光」を現す出来事になるのです。だからイエスは泣いているマリアと人々を見て、心に憤りを覚え、興奮して墓に向かわれます。

「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』と言った。イエスは、『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。『父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。』こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた。マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」(ヨハネ11・38~45

ここで思うのは、イエスはなぜここまで憤り、興奮なさったのでしょうかということです。イエスが心に憤りを覚えた対象は、明らかに、人間をやり場のない悲しみに突き落とす「死」だといえます。また、興奮し感情をあらわになさったのは、ご自分が背負わなければいけない十字架を思ってのことではないでしょうか。イエスは、ラザロを生き返らせることが自分の死を招くことをよくご存じだったからです。そうすることが人々を信仰に導き「神の栄光」を現すことになるのです。

これにより、イエスが永遠の命を与える方であることが示され、わたしたちの死が克服されて命への扉となったのです。

わたしたちの死は、どのような最後になろうとも、その先があります。だからわたしたちは死者のために祈るのです。大事にしたいですね。

因みに、イエスの奇跡は「カナの婚宴」に始まり、これが最初の奇跡と呼ばれます。そして、今日の「ラザロの復活」はその最後の奇跡になります。

 

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