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四旬節第4主日:罪とは?「いなくなった息子」「生き返った息子」を基に…

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四旬節第4主日(C年)の説教⇒2025/03/30

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

四旬節第4主日(C年)の説教=ルカ15・1~3、11~32

2025年3月30日

わたしたちが社会で生きていくために必要で、且つ、大切にしていることがあります。ごく当たり前と思って、通常あまり意識していないのではないかと思いますが、法律の存在とその順守です。その他、慣習であったり、身近な決まり事だったりと、社会生活を推し進めていくために多くの規範が立てられています。

通常、わたしたちはこの規範を破るときに、「犯罪者」となり、周りからもそう呼ばれ、見られます。まず「正しさ」を規定する規範を立て、そこから逸脱する行為を「罪」とみるわけです。法律、諸規範が社会の秩序を維持するためには、なくてはならない大事なものであることは言うまでもありません。

ところで、「園児切り付け」事件があった昨年6月。この事件を受けて鹿児島市が独自に設置した第三者委員会が24日、報告書を提出しました。それによると、事件発生以前に園児のけがの急増など通常と異なる状況があったと指摘し「日々の保育の中での違和感について情報を共有し、原因を究明する必要がある」と提言しています。(南日本新聞2025年3月25日朝刊)

事件が起きるのはその団体の組織、制度、体制が起こすのではないでしょう。誘因材料、条件になることはあるでしょうが、事件そのものを起こし、犯罪を引き起こす主人公は、あくまでも「人」です。ですから、人を相手にした解決策を考え、再発防止に向けられないといけないのではないでしょうか。

報告内容によると、教職員へのフォロー体制強化やメンタルヘルスケアの充実などの提言が挙げられています。中でも大事とされるのが、教職員同士の交わりの構築があります。これは日々のことなので、一人ひとりが心がけること以外に高めることはできないが、でも、呼びかけ合うことはできる。一般的な言い方をすれば、仲のいい友人関係を築くこと、発展させていくこと、その中に一人ひとりが成長していく「秘訣」が横たわっています。お互いを信じ、信じあい、許し、許しあっていく関係を大切にし、より豊かな人間味を築き上げることです。お互いが刺激し合って、きっといい「人となり」が生まれてきます。やはり、人は人と接すること、交わることによって「その人らしく」成長していきます。

今日の福音でも注目しなければいけないのが、「人間関係」にあると思います。表にはそのようなことを感じさせる話ではありませんが、じっくりと言葉を味わってみますと、弟のいう言葉に、聖書が指摘する「罪」とは、の答えがあるように思います。

一般には法律、規範を破り、逸脱する行為を罪と見ます。罪を犯す人は、いろいろな人との交わりを経て成長してきた人間です。それだけに、どのような人とのかかわりがあったのか、生きてきた環境が問われます。

そして、生きている今の環境、人間関係が求めるものに誠実に応えているかぎり、正しい歩みを続けることができます。

四旬節第4主日:お前のあの弟は生き返ったのだ。祝宴を開くのは当前だ
四旬節第4主日(C年)の聖書=ルカ15・1~3、11~32 〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

今日の福音をこの視点から眺めてみますと、聖書が言う「罪」とは、が見えてきます。つまり、関係が求めるものに誠実に応える時その人は「正しい」のであり、その関係を破るとき「罪」を犯したとなります。このことを思わせる箇所が次の通りです。

「そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。』」(ルカ15・17~19)

息子の言葉の中にあるように、彼は神と父との関係において誠実さを欠いていたのです。それが彼の「罪」です。そのかかわりが求めていることに逆らうとき、その関係が傷つきます。彼は関係を構築するどころか崩壊させてしまったのです。そのために、あるべきところから離れて、遠い国に旅立ったのです。そこに住む人々の関心事は、彼が持っている資産です。そこで彼は財産を、放蕩の限りを尽くして使い果たし、その「遠い国」で空腹のために飢え死にしそうになったのです。そして、初めて自分の罪を意識し自覚します。

本来あるべき場所から離れた「遠い国」では、困窮し始めた時に、彼を支えるための周りの人々は誰もいませんでした。身を寄せるところもなく、当時は飼うことを禁じられていた豚の世話をする羽目に陥りました。放蕩の限りを尽くした結果がこれだったのです。福音は叫びます。

「何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。」(ルカ15・14~16)

「放蕩」の代償は散々なものでした。彼はあるべきところにあるものが、そこにないと本来の力を発揮できないことになる、つまり、「罪」の大きさを実感したのです。とにもかくにも、息子は自分の罪に目覚め、本来の関係修復ができました。

「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。そして、祝宴を始めた。」

 

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