
説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神
四旬節第2主日(C年)の説教=ルカ9・28b~36
2025年3月16日
「春には祈年祭で豊作を祈り、秋には新嘗祭で収穫に感謝」といわれているように、あちらこちらで五穀豊穣祈願祭が執り行われているようです。
まかれた種もみや苗に見立てたサカキは縁起物として見物客が持ち帰りました。その中に、生後11ケ月の葵椛(あおか)ちゃんを抱いて見物した霧島市隼人の橋元古都美さん(27歳)は「子どもの健やかな成長を願いながら見た。拾ったサカキは神棚に飾りたい」畔タボルさんと話しておられました。
わたしたちは「祈る」ときにどのようにしているでしょうか。といいますのは、一人静かに神を思うことがあるでしょうか。つまり、わざわざそのための時間をつくって思いを巡らすことを、時を味わっているでしょうか。それどころじゃない。目の前の仕事を果たすことで手いっぱいである、そんな時間をつくることなどできるわけがない、と自己弁明をすることが精一杯なのです。あえてそう弁明しなくても、時間をつくらないことによってそういっているのです。
普段何もないが安寧に安心して過ごせていることをどう思っているでしょうか。そうあって当たり前、と思っているかもしれませんが、そうでない人たちもたくさんいます。当然ながら、その人たちのつぶやき(祈り)は、目覚めたときから始まります。そして、彼らの実生活に密着した祈りとなり、強い訴えとなって主の前に差し出されるのです。それは、今のこの瞬間の祈りです。つぶやきです。
祈る人には、祈りの場所、時というものはありません。目覚めている限りが「その時」です。人としての祈りは、場所選びにしても、祈りの内容にしても、本当は選んでお捧げするものではないのでしょう。その時その時にあふれ出てきた思いが、自ずと言葉になって、訴えの嘆きの叫びになって出てくるものなのでしょう。
でも、人間の思いとしては、祈る場所、時はとても大事なことのように思えます。

きょうの福音書は、ルカによるタボル山におけるイエスご変容のお話です。その山には「祈るために」登られたとルカは説明します。
「イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」
イエスはこの姿を弟子たちに見せておきたかったのです。これもまた、弟子たちの教育のためでした。弟子たちはたびたびイエスから教えを受けながらも、なかなかイエスから認めてもらえるような育ちが見えないのです。イエスの苦労も大変なものだったでしょう。きょうも弟子たちの育ちの悪さがその顔をのぞかせています。ルカは書いています。
「ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。」
ペトロの中にあった思い、それは今、現に体験しているすばらしい光景が消え去らないようにと願うことでした。すなわち、まばゆいこの栄光を地上に留め置きたくて、そのために「仮小屋を三つ建てましょう」と口走ってしまったのです。でも、ペトロの申し出は受け入れられませんでした。今イエスに輝いている栄光は神の栄光です。イエスが与える神の国の栄光は、「土地取得」を超えてゆきます。「土地」の獲得は、旧約聖書では祝福のしるしです。しかし、「新しい契約の時代」には、祝福のしるしは変わってゆきます。イエスの変容の姿は、その祝福が天にあることをわたしたちに示しています。
そして、雲の中から神の声が響き渡ります、「これに聞け」と。その時、弟子の前に立っていたのはただイエスだけでした。弟子が従うべき人物はこのイエスなのです。十字架の栄光をまだ理解していない弟子たち、戸惑いのうちに沈黙してしまいます。ご変容によってイエスの栄光を垣間見せたのは、イエスの十字架が神の意思であることを弟子たちに示すためなのです。
だからこそ、ご変容の前後に受難と復活の予告が行われています。
祈りはいつでも、どこででも、今の環境のもと神に向けて発信しよう。
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