年間第27主日(A年)の説教=マタイ21・33~43
2017年10月8日
今、自分の周囲のいろいろな状況を見まわしますと、気なることが大ありです。個人的なことを申し上げて恐縮ですが、わたしの友人に中学校の教師がいます。彼の普段の動きを見てみますと「自分の時間」「息を抜く時間」がないように感じています。彼曰く。「提出書類が多くて、その作成のために生徒と語り合う時間がない」と。
いわゆる、事務的な業務が極端に増え、デスクワークが中心になってきつつあるのではないかと危惧しています。教育の現場は「人」が中心になって初めて、「教わる」「育つ」の掛け合いが成り立っていくのだと、わたしは思っています。もちろん、教師独自の勉学は大事です。
中学校の部活動をめぐる様々な問題から
他方で、学校の部活動のあり方が問題になっています。「日本の『部活文化』は少し行き過ぎではないか」と変革を提言しているのは、名古屋大学の内田良准教授(教育社会学)です。(讀賣新聞大阪本社、2017年10月2日朝刊)
顧問の先生方の部活以外の活動にも支障が出ている
授業より部活指導が楽しいという教員が多いのだそうです。その一方で、「全員顧問」の名の下に未経験の競技や分野で顧問を無理強いされている教員も少なくないといいます。しかも、平日の指導は必然的に残業になりますが、残業代も出ず、土日もほとんどつぶれてしまうのが現実です。調査によりますと、中学教員の職場滞在時間の平均は、民間よりも約3時間多い12時間超。生徒側も疲れ切って、勉学や部活以外の活動に支障が出ているといいます。
この傾向は、1990年ごろから徐々に強まってきました。学力以外の分野も学校教育の新たな評価対象となったためで、大会結果など競争を重視する側面が強まったのです。「楽しいからこそ教員が夢中になって」と内田准教授は言います。そして、教育現場を覆う「部活性善説」が加熱につながる一つの動機ともいえないでしょうか。さらに、「部活は教育課程外で、原則は自主的なもののはずなのに、本末転倒ではないか」と問いかけます。そして、この記事の最後を結んでいます。「部活が、ブラック企業の精神を養成しているとつくづく感じる。ただ、効用もあるので、残していくためにこそ、歯止めをかけるべきではないか」と。
長く続いた部活の慣習を変えるためには意識改革が必要
長年慣習化されてきたことがらに関して、いきなり変更するということはかなりの決断力が求められます。同時に、変更するのに時間もかけないといけませんし、変更のタイミングも重要になってきます。また、その変更によって受ける影響力の大きさ、広さによっても、さまざまな条件が重なり合って表面化してくるでしょう。まずは、当事者の意識改革が求められるところです。
福音の残忍なたとえ話は、長い外国支配が背景に
今日の福音書の話はあまりにも残忍なたとえ話です。農民たちの悲しさもありますが、むしろ、残忍性が問題になっているといえないでしょうか。外国人の地主に搾取されている農民の日々は、決して、人として十分な生き方とはいえないでしょう。がしかし、彼らの敵意に満ちた残酷さが強調されているように思います。この話は、実際に、長い間外国人の支配下にあった彼らの体験談が背景にあります。
同時にそれは、エルサレムに入場したイエスさまの、その時の置かれている状況をも示しているようです。イエスさまを亡き者にしようと企んでいた律法学士、長老、祭司長たちの姿が浮かんできます。要するに、彼らはイエスさまの言動にことごとく反対し、理解しようとする動きすら見せませんでした。形式に、儀式にどっぷりと浸りきってしまっていることが、彼らにとって一番正しいことだと何の疑いも持っていなかったのです。
イエスは慣習に囚われている支配層に意識改革を訴えた
言い方を変えれば、表はきれいな衣装にまとわれていても、内側はおごり高ぶっている生き方をしている彼らこそ、「意識改革」をして、どろどろした自分たちの欲望の世界から脱却してほしいものです。明らかに回心する妨げになっています。イエスさまが指摘したかったところではないでしょうか。
回心の本命は、より善いことに目覚めていくこと
現代に生きるわたしたちも、人が人らしく、中学生は中学生らしく、よりよく生きようとすれば、華々しくではなく、普段の小さな積み重ねの先に、新たな、回心した自分を発見することができます。そして、自分としては予想もしなかった成長した「自分自身」に気付かされるのではないでしょうか。
自分の足りないところ、弱いところを正すことだけが「回心」ではないでしょう。より善いことに目覚めていくことが本命だと思います。これまた、大きな「意識改革」ではないでしょうか。自分がいただいている魅力に気づかされますよ。
コメント