四旬節第5主日(A年)の説教=ヨハネ11・1~45
2017年4月2日
「襟を正せ」「背筋を伸ばせ」とか「恥を知れ」「上司に恥をかかせてはいけない」とか、かつてよく耳にした表現が今では廃れてきたのでしょうか。あまり言ったり聞いたりしなくなりました。
日本の「恥の文化」は常に他者を意識した相対的な規範
かつて、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトが発表した「菊と刀」(1946年)という著書で取り上げた日本人の思考様式があります。ご存知のように日本の文化は「恥の文化」とする考え方です。日本人にしますと、日常何気なく行っている行動が、アメリカ人の視点から見ますとまるで違う道徳規範に支えられているように思えたのでしょう。そして、辿りついた結論が、周囲の人々から受ける嘲笑や非難に対する「恥」の心情が、日本人の行動の規範になっているということでした。常に他者を意識した相対的な規範であると言えるでしょう。
西洋の「罪の文化」は神が見ていて隠しようがない絶対的な規範
それに比べ、西洋文化の行動様式の特徴は「天は見ている、地も見ている、己も見ている」という意識です。つまり、神がいつも見ているということが、自己規制、自己抑制となっているということです。それを「罪の文化」と言っています。要するに、罪の意識が、すなはち、罪を犯してはいけないという思いが、行動規範になっています。しかも、罪を犯したときには、神が見ていて隠しようがない絶対的な規範となっているのです。
文化の違いは、ことわざににも現れている
こうした文化の違いは、「ことわざ」にも見られます。欧米のものは、「神はゆっくり近づくが、その下す罰は確実である」「清らかな良心は偽りの非難を怖れない」。この根源には「罪」があります。日本のことわざは「旅の恥はかき捨て」「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」。その根源には「恥」があります。
恥の意識から抜け出そうと努力する人もいる
このような文化圏の中に生活しているわたしたち日本人。中には、「恥の意識」から抜け出そうと、意識的に努力している人がいらっしゃるとも聞きます。その方曰く。「『恥ずかしいからしない』のではなく、『道徳律に照らしてやってはいけないからしない』という規範意識を持ちたい」と。
と言いつつも、日本人としての自分に変わりはありません。最近では、こんなに言う人もいます。「罪にならなければやってもかまわないでしょう」と。こうなりますと、日本人の血が騒ぐのではないでしょうか。日本人が長年「恥の文化」の中で培い、育んできた規範が生きるのです。
善悪を判断基準にしたら、他人の目を超越できる
「人目」があるなしで、やったりやらなかったりする可能性のある規範かもしれませんが、「善いこと」と思えば、「人目」に関係なく実行する(やる)ように向けていけば、「絶対的」とはいかないまでも「恒常的」な規範としてわが身につくのではないでしょうか。
信仰の感性が加われば、もっと力ある規範となる
それに、信仰上の感性が加味されますと、願ってもない、力ある規範として「わたし」の行動に味付けしてくれそうです。イエスさまはマルタの信仰に、さらに味付けをして「信仰の感性」を豊かになさいます。
イエスさまが「あなたの兄弟は復活する」と言われた言葉に対して、マルタは、死のかなたに復活があることは知っていると答えます。イエスさまの言葉の真意は、神との関係において罪びとであるわたしたちに対して、地上においてこの歴史の中で新しい命を与える存在としてイエスさまがおられるということです。
マルタの信仰をかなたのものとしてではなく、現在のものとして確認させられるのです。マルタは自分の目の前にいるイエスさまを、そのような方として「今」信じるか否かをはっきりとさせます。受け入れたということは、恥も人目もかなぐり捨てて、イエスさまの側に立ったということです。
マルタは育った環境の中で信仰を増してもらった
マルタは長年育った環境の中で培ってきた信仰を、イエスさまに増していただきました。それは、彼女が生きてきた環境が無視されたわけではありません。どこに生きていても、人として、信仰者としての成長に無駄なことはないということでしょう。
文化は違っても、人はみな神に向かっている
「罪の文化」「恥の文化」という表現は違っているように見えますが、生きている「人」は「人として」同じです。神に向かっているのです。
さらに、人としての生き方、信仰に、今必要な中味を上乗せしていただきましょう。
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