四旬節第5主日(A年)の説教=ヨハネ11.1~45
2014年4月6日
最近、ラジオ、新聞等で「しつけ」なることばを、よく耳にしたり、目にしたりします。なんだか気になっています。「しつけ」という言葉を聞きますと「きびしい」というイメージがわいてきます。もっと突っ込んだ言い方をしますと「うるさい」というイメージが、わたしの中には印象付けられます。「しつける」という動詞にすると、その評価は変わるのでしょうか。ますますいただけません。生きる「所作、作法」といえば、なんとなく「身につけよう」と思わなくもありませんが、・・・。
ことばのもつ響きは、個人差はあるでしょうが、一言聞いただけで全体が伝わってきます。それはまた、過去の経験と無関係ではないようです。中でも、一緒に生活している仲間、ご夫婦、家族の間では、「阿吽」の呼吸がぴったりと合い、何かと気楽に生きていけるのではないでしょうか。ともにいる「よしみ」からくる何ともいいがたい、いい空気があるからです。そこには善意のあふれ、理解力の豊かさが充満しています。
今日の福音の中で、イエスさまとマルタの対話が展開されています。その中で、イエスさまが語る言葉に、マルタは乏しいながらも、少なくとも受け止めることはできたのではないでしょうか。二人の対話が進展していく内容を見ればそう感じます。そのまとめが、イエスさまの叫ばれた言葉にあります。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝いたします。・・・わたしがこう言うのは、周りの群衆のためです。・・・」(42節)。
このイエスさまのことばは、これまでお付き合いのあったマルタをはじめとしたラザロの家族にとっては、そうでない群衆よりは、響いてきた内容ではなかったのかなと思います。でも、最終的には「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」(45節)のです。
人間同士の「阿吽の呼吸」は、どちらかといえば「排他性」を感じさせる面が無きにしも非ずです。イエスさまの父とのそれは、決して排他的なものではなく、人びとがそれを知って、父を信じ、それに加わることのできる交わりです。
そして、イエスさまがいわれる「出て来なさい」という言葉は、ラザロに向けていわれましたが、今に生きているわたしたちも、この四旬節中に、「自分の殻から出て来なさい」と、招かれているようです。四旬節は回心、つまり、自己中心からの転回が求められ、新たな自己発見が叫ばれています。ラザロが出ていくために、墓の石が取りのけられました。同じように、わたしたちが出ていくために、邪魔になっているものはないでしょうか。あるならば、イエスさまに教えていただきましょう。
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