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"年間第23主日"

2023年/A年説教=み言葉は「救い」の見極め

年間第23主日:教会はイエス中心の集い。社会や教育現場の真ん中には?

すべてをつなぎ、また解くという教会の権威は、教会の中心にいるイエスと天の父に由来します。そして「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とあるように、教会はイエスが中心にいる集いなのです。
2022年/C年説教=弱き者を救う神

年間第23主日:わたしに神がして下さった心地よい出来事に目覚めたい

イエスは最高の価値を天のお父に置いています。私たちはどうしても人間的な愛情に惹かれがちですが、イエスとの関係を「真」なるものにしたければ、しっかりと神を見つめる目と心が必要とされます。
2021年/B年説教=新しいいのちの輝き

年間第23主日:「苦しい時の神頼み」は神を感じる第一歩

神さまにはお願いばかりが多いのは、それだけ苦しいことが多いということでしょうが、感謝することも多くありたいもの。それにしても、神さまにお世話になっていると感じているのでしょうか。人への「義理」は敏感ですが、神への「義理」(?)はどうなっていますか。
2020年/A年説教=応えていますか、いつも

年間第23主日:一粒の砂のようであっても、神は「わたし」を気にかける

わたしたちの共同体(教会)は、イエスが中心にいる集いです。どんな小さな一人でも滅びることがないようにと願う神の思いが実現されるために、わたしたちは悔い改めを必要としている人への働きかけを、今日もするように求められています。
2019年/C年説教=召ばれています、いつも

年間第23主日:普段の生活の中で、優先順位の存在に目覚めてほしい

キリストの弟子になるということは、生きるための優先順位に目覚めることだと、おっしゃりたいのです。イエス自身、その最高の評価をおん父におきます。人間的な愛情をつなぎながら、神に向かってこそ価値ある人生、真のしあわせと言えるのです、とイエスはおっしゃりたいのです。
2018年/B年説教=神への道標

年間第23主日:二千年前の人々の心で「奇跡」を眺め、捉えてみたい

2000年前に生きていた人々の心で「奇跡」を眺め、捉える必要があるでしょう。すると、奇跡の中に込められたメッセージを読み取ることができるのでは・・。イエスさまが歩まれた道のりは、異邦人の地と言われていた町々です。そこの人々に新たな希望をお与えになります。
2017年/A年説教=神のふところ

年間第23主日:罪は罪、事実は事実として宣言する勇気の先にあるのは愛

わたしたちの日常、何気なくしていることは、いつも神の意志との関りの中でやっていることです。一人ひとりがこのことに目覚めていくときに、人からの忠告も進言も、助言も素直に「わたし」の中に入ってくるのではないでしょうか。
2016年/C年説教=神のぬくもり

年間第23主日:現世的なことに囚われ、確かな価値を見失わないように!

今日のイエスさまの弟子たるもののきびしい条件は、現世的な利益と安寧を求める時代背景の中で語られたものです。わたしたちも現世的な価値観にとらわれ、目先の幸せや利益に目がくらむことはよくあります。
2015年/B年説教=イエスのこころ

年間第23主日:イエスさまは神の国を運んでいる方というメッセージ

見えない目が開き、聞こえない耳が聞こえるようになる、こういった体の癒しは、その人にとって人生の生き方に大きく影響してきます。そこからもわかるように、身体の癒しは、深い内面の癒しでもあるのです。
2014年/A年説教=神のたしかさ

年間第23主日:救われるためには、罪は罪として本人が自覚すること

助けを求めている人が近くにいるなら、臆することなく振り向いて共鳴し、その人に何らプラスの変化が起きなかったとしても、勇気を失わずに希望を強くして祈り、手を差し伸べることをやめないことです、と今日のイエスさまは叫んでいます。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

年間第23主日:イエスさまは生きる最高の価値を「神」に置く

現代でも、有名人になれば一目見たいという好奇心がわいてくるものです。この「好奇心」の陰に横たわっていた人々の現世的利益と幸福を願う思いを、イエスさまは徹底的に崩してしまおうとされたのでしょう。
2012年/B年説教=主との出会い

年間第23主日:奇跡には豊かなメッセージが含まれている

その見えるしるしが「足の不自由な人が鹿のように跳ねあがった」喜びであると思います。闇に沈む人々に躍動を与えるイエスさまの姿が奇跡のしるしの裏に隠されています。本物を見つめましょう。
2011年/A年説教=神のみことば

年間第23主日:過ちを犯す人にできる限りの手助けをしなさい

一人たりとも滅びの道を歩むことは神の望みではないのです。救うことが神の意向であり、イエスさまの道なのです。周囲の人にもいさめにいくことを求めます。あきらめることなく、さらに働きかけていくべきでしょう。