主の昇天(A年)の説教=マタイ28・16~20
2023年5月21日
わたしたちの人生において、出会いがあると、その人とのかかわりが始まります。そして、そのあとには必ずと言っていいほどに別れが待っています。しかし、出会ったときには別れを意識してはいませんが、いざその時が来ると、中には、その別れが嬉しくて、「待ってました」と言わんばかりに喜びに変わることもあります。それは、それまでのかかわりが芳しくなかったか、一方的に嫌な感じを抱いていたからか、相手に嫌がられていたからか、いずれにせよ、そのかかわりがたまらなく嫌だった場合があります。そこで別れることによって、嫌だった環境から解放されることになるからでしょうか、嬉しくなってくるんですね。でも、ホッとするといったほうがより正確でしょうか。
一般的には、多くの場合は別れが耐えがたく、「惜しい、どうして」といいたくなるような名残惜しい別れ、惜別になってしまうのではないでしょうか。その「別れ」に我慢できない場合もあります。辛いときがあります。特に恋人同士の場合はそうでしょう。
わたしにも人並みの若い時代がありました。「恋人」というわけではありませんでしたが、それに似た体験があります。時間があれば一緒にいたいなという気持ちになるんですよね。止む無く別々にならざるを得なくなった時、外見的にはなんともさわやかな別れでした。しかし、心では、それこそ「なんでやねん」と思いつつ、・・のあきらめきれない感じがありましたね、今、再度思い出しますと。
ところが現代では、いろいろな人々と出会いたくても「出会い」そのものの機会が持てない人、子どもたちが増大しています。不登校や生活困窮など悩みを抱える子どもたちが増えているのです。そのような子どもたちのためにと、子どもを支援する施設「子どもの秘密基地」がこの4月に、いちき串木野市旭町(鹿児島県)に開設されました。(南日本新聞2023年5月12日朝刊)
子どもの意思で来られるようにと利用料は無料です。施設を運営する一般社団法人tuna代表の真田裕美さん(51歳)は「利用する子どもが安心して『ただいま』といえる場所にしたい」と意気込んでおられます。
この活動のきっかけは、発達障害の影響で学校になじめなかった娘の希美さんの存在でした。「自分のように学びたくても学べない人の力になりたい」との言葉が真田さんに響き、親子で支援活動に取り組んでいます。施設では学習支援や子ども食堂に加え、地元の食や文化を学ぶ体験にも力を入れています。例えば、地域の人にお教わりながらのあくまき作り、さつまあげ作りなど、体験学習にも力を入れているといいます。もちろん、地域の農家や漁師のみなさんの温かい応援を見逃すことはできません。
今の社会の動きを見ますと、お互いの交わりが持てなくなるように人間関係が回転しているのではないかと思ってしまいます。気づかないうちにだんだんと稀薄な交わりに向けられているような感じがしてなりません。というのは、他者が進言してくれること、アドバイスの言葉を大事にする傾向がなくなり、単に、参考にすぎないこととして終わらせているのではないでしょうか。でも、その実、参考にすらなっていないのです。
他者と交わりを持っても、ひょっとすると、その場しのぎ、表面を取り繕うだけに終わっていませんか。今の社会の風潮では、他者と交わりを持つ以上に、自分のことが優先され、ひたすらそのことを追求することに走ってしまうことが普通になっているように感じてしまいます。
イエスは弟子たちとの密接な関係の中で、いろいろな教えを説き、勧め、命令してきました。そのことに弟子たちはべったりと寄りかかり、甘えてきたきらいがあります。イエスが、この間弟子たちに指摘してきた彼らの「信仰」の程度に弟子たち自らが気づくのは、イエスの受難とそれに続く十字架の刑が執行されるときでした。彼らはこの出来事を通して自分たちの頼りなさ、もろさを嫌というほどに体験し、そして、実感したのです。
それでもイエスは、弟子たちの裏切りに対しても攻め立てることなく、さらに新しい導きへと招いてくれるのです。イエスは彼らとの関係を大事にしました。そして、弟子たちとの最後の別れの時、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」(ヨハネ13章36節)とペトロに言いながら、それでも「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」(同上16章7節)と聖霊による自立への道へとお招きになるのです。
主・イエスとの別れ(昇天)が来るまでの期間、弟子たちは、イエスに寄りかかっていた自分たちの甘えにとどまり続けることができないこと、ゆえに、イエスが生涯をかけて弟子たちに施してくれた無償の愛と力を自らの中に取り入れていくことの学びに目覚めたのでした。つまり、イエスが誕生してから多くの人々と交わり、十字架上で亡くなり、復活するまでの間に示され、わたしたちには隠されていた救いの奥義の本質を学んでいくことに目覚めたのです。
それは、「見ずして信じる者は幸いである」という信仰を学んでいくようになっていったということです。感覚的に何も感じられなくても、イエスの愛と恵が、わたしたちが生きるための根底にあり、源泉なのだということに気づかされ、信仰の質が変わっていったのです。イエスとの別離の辛さを通して、その信仰が深まっていったのです。主の昇天は、別れであるとともに、「わたし」の信仰、救いに目覚めるときでもあります。そのためにも、人とのかかわり、「出会い」はすべてにおいて「わたし」に必要です。そして、大切です。
そして、わたしたちの信仰を完成させてくれるのが聖霊です。
わたしたちの日常において、様々な動揺、試練を体験するとき、この時こそ、弟子たちと同じように、わたしたちの信仰を質の高い、深いものにしていく時です。そうしていけますように、しっかりと見つめ、前に進めていきましょう。
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