四旬節第5主日(B年)の説教=ヨハネ12.20~33
2015年3月22日
まだわたしが若いころ、ある神父様から言われたことがあります。「もし、君が、自分がどこで、何時何分に死ぬということがわかっていたらどうするか」とおっしゃるのです。人それぞれに、その最期がわかっていると、不安な気持ちが先立つのではないでしょうか。分かっていないことが幸いであることを前提に、生きることを楽しみ、奉仕できれば、その幸いは増大します。
誰でも、みな一度は死を迎えます。そして、その死はいろいろです。病で亡くなる方、事故で命を落とす方、また、刑死で神に命を返される方など、様々です。その中には、親しい多くの方に見守られて亡くなられる人もいれば、借家の、しかも、人知れずアパートの片隅で孤独死をなさる方もいらっしゃいます。
人類史上、何人の方々が亡くなられたのでしょうか。そのほとんどは、年月が経つにつれて、人の記憶から薄れていきます。年に数回は意識上に登場しても、毎日頻繁に意識することはそんなにないのではないでしょうか。
どうしてでしょうか。イエスさまの死だけは世界のあらゆる人たちから気にされています。しかも、イエスさまご自身は、何のために自分が死に、その影響範囲もご存知の上で、「どのような死を遂げるか」を示そうとされて今日の話(福音)があります。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のまま残るが、死ねば豊かに実を結ぶ」と話されます。このたとえを通してイエスさまは何を伝えたかったのでしょうか。イエスさまが伝えようとされたご自分の死の意味です。それは、一度自分を否定すること、そこに新しい命へと変容していくイエスさま本来の「死」の意味が込められています。つまり、自分の姿(一粒のまま残る)を消していく中に、死んだままでは終わらない復活(豊かな実)の結びがあります。
イエスさまは、神の子でありながらその地位にこだわることなく、人間としても、その幸福やよろこびを放棄することの辛さも知りつつ、言われます。「いま、わたしのこころは騒ぐ。何と言おうか」。
わたしたちと同じく、イエスさまもその死を前にしてこころ騒ぐのです。しかし、この悶え葛藤を乗り越えて、父のもとに一歩突き進むのです。ここに、おん父のわたしたちへの愛、自己否定の道を歩まれたイエスさまの純粋な愛があります。こうしてイエスさまは十字架の死へと向かっていかれました。だからこそ、イエスさまの一人の死は世界に人々の救いの力となっていったのです。だからこそ、わたしたちの最期はわからないのがいいのです。
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