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待降節第2主日:自らに目覚め、ゆるされたいと願う真剣な自分がいるか?

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待降節第2主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

待降節第2主日(C年)の聖書=ルカ3・1~6

2021年12月5日

日々の報道から”メッセージ”を読み取りたい

日々報道される内容を見るにつれ、何とこんなにまで次から次へと事件が多いのだろうかと考え込んでしまいます。わたしが考えたからといって、もちろん、物事が好転するわけでもないですが、・・。

子どもに関する事件事故報道に暗澹となるが

それにしても、子どもにかかわる事件・事故が多いですね。しかも、小学生同士の「命に係わる」事件なんて、その昔には想像すらしない、できない出来事です。これって、何を物語っているのでしょうか。何をわたしたちに語りかけているのでしょう。人間の貧弱さが悪い方向に出てしまっているような気がします。良い方向に向かうとしたら、お互い弱いからこそ、助け合いの心が育っていくのだと思ってきました。そして、これがごく自然の姿なのではないかと、・・。それゆえに、わたしたちは、お互いが集い合うことができるし、その必要性を当たり前のごとく受け止めてきたのではないですか。

ところが、「中3 同級生に刺され死亡」なんて見出しを見ますと、「なんでや」と叫びたくなります。「生徒同士のトラブルがあった」という110番通報。3年の伊藤紬輝さん(14歳)が包丁で腹付近を刺され、搬送先の病院で死亡が確認されました、という報道です。またもや生徒による事件が起きてしまいました。(南日本新聞2021年11月25日朝刊)

こうしたマイナスの情報ばかりが目についてしまいやすくなりますが、もちろん、プラスの情報だってあります。でも「あたりまえ」感覚が働いているのでしょうか、目立たないのです。それとも、ホットなニュースに鈍感になってきたのでしょうか。

小学生が老人ホームを訪問した明るい話題も

「窓越しでも楽しんで」との見出しで、小学生が特別養護老人ホームを訪れ、入居者約30人を喜ばせたということです。(同上紙2021年11月26日朝刊)

南さつま市の万世小学校3年生28人が、特別養護老人ホームようとく園を訪れたのです。新型コロナ感染防止のため、ガラス窓越しに歌や踊りを披露し入居者を喜ばせました。カーテンを開いたガラス窓の向こうに子どもたちの姿が見えると、お年寄りは声をあげて喜んで歓迎していました。ソーラン節では手拍子をして一緒に楽しんだようです。折り紙や手紙の贈り物もあり、原口末治さん(94歳)は「みんな孫みたい、元気ももらった」とうれしく話しています。

日々の人間の営みの中で起きる様々な出会いには、いつも何かのメッセージが込められているような気がします。何も関係当時者に対してだけでなく、その話題を聞いたり、見たりする第三者に対してでもです。

待降節第2主日:神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
待降節第2主日(C年)の聖書=ルカ3・1~6 皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニヤがアビレネの領主、

今日の福音書では、ヨルダンの荒れ野で洗礼者ヨハネが叫び声をあげます。神の言葉がこのヨハネに降ったからです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。 谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、 人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と。

”主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ”

この叫びは、バビロンに捕らわれの身になっていたユダの人々に、救いが近いことを知らせるものだったのです。母国は戦いに敗れ、心の支えであった神殿も壊され、家族もバラバラになり、人々はバビロンへ苦役のため連行されました。絶望のどん底にあった彼らにとって、この苦役の期間は、自分たちの生き方を反省する機会となったのでした。捕らわれの身になるまでの彼らの日々は、ひどく乱れきったものだったからです。

というのは、今のわたしたちもそうでしょうか、日々の目の前の生活に追われ、完全に神を無視し続けたのでした。かつて、エジプトの奴隷状態から解放してくれた神のいつくしみとやさしさに反する生き方の連続だったのです。このことに気づかされたのが、バビロンでの日々でした。自分たちがどうならなければいけないのかに目覚めたのです。それは、悔い改めて、神のゆるしを求めて神に向かうことでした。

今、地球上では新型コロナの感染拡大が止まらず、人々は苦悩の日々を過ごすことを余儀なくされています。丸二年も続けばいい加減うんざり感が募ります。しかし、ただ単に時間が経過するのを何もしないで待つのも、なんとも空しいと感じてしまいます。その実、わたしたちの日常は、何の意味もなく過ぎてはいかないでしょう。日々の出来事にはメッセージが込められているのではないでしょうか。コロナ禍を過ごす中で、その感をさらに強くしました。実に神は、歴史の流れを通してその救いのわざを示されるからです。

神の業の方へと生きる姿勢全体を変えること

しかも、神の言葉が降ったのは、当時の権力者ではなく、その名も知られないヨハネであったのです。人間は権力の座をめぐって激しい闘争を繰り返しますが、神はそうした彼ら権力者にではなく、人々には知られてなく、また、無力のヨハネに語りかけたのです。そのヨハネの活動はといえば、まさに「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えて」いたのです。つまり、「神が起こした業の方へと、生きる姿勢全体を変えること」だったのです。彼らの思いに合致していました。さらに大事なのは、神が示された方向であって、人が努力する方向ではないということです。罪の赦しをもたらす「主」がすぐそこに来ているということです。過去の「わたし」を、ゆるされたいと真剣に感じていますか?

今わたしたちの周りで起きている新型コロナ感染症、それは、まさに、わたしたち一人ひとりに悔い改めを訴えかけているのではないでしょうか。一人ひとりの居場所で、それにあった気づきがあれば、そこに今の、そして、その時々の神からの呼びかけ、叫び声が聞こえてくるのでは、・・。

現代のマイナスの報道、プラスの報道の双方に「神からの救いの業のしるし」を見抜かせていただきたいですね。わたしが、また、わたしたち日本人が大事にしてきたこと、置き去りにしていることは何でしょう。身近なそこにこそ、「神の救いの業の示し」がありはしないでしょうか、・・。

あえて時間をつくり、神からの静かな語りかけに耳を澄ましてみましょう。

 

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