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四旬節第5主日

2024年/B年の説教=あなたの言葉は「わたし」の道の光

四旬節第5主日:イエスの生き方は「自己否定」。わたしたちを生かすために

イエスの生き方は、まさに、他者を生かすために、つまりわたしたちひとりひとりを、神の子にふさわしく生きるようにとの父のご計画だったのです。父の栄光を現すために生きられた一生でした。
2023年/A年説教=み言葉は「救い」の見極め

四旬節第5主日:信じること、それは、神の栄光を現すこと⇒いのちへの扉

「信じる」ことは生きるために、救われるために、平和に暮らすためになくてはならない「宝物」です。イエスを信じるといえば、イエスに関することをほんとうだと思い、イエスに信頼をおき、イエスに帰依することです。
2022年/C年説教=弱き者を救う神

四旬節第5主日:人に石を投げる代わりに、恵みを注ぎ続ける神に向かおう

イエスの言葉は、安易に裁きたくなる人びとに、自分の現実に目を向けてみなさいと促しています。人が裁こうとしている人を神はそっと支え、救おうと働きかけているのです。神は、人間のすべてを知りつつ、石を投げる代わりにゆるしの恵みを注ぎ続けておられます。今も、これからも。
2021年/B年説教=新しいいのちの輝き

四旬節第5主日:わたしを、さらに生かすために「わたし」を捨てる

イエスはご自分の死を前にして、真のいのちとは、自分を中心にした利己的な生き方を否定するところにある、と強調されます。だから、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と言われるのです。
2020年/A年説教=応えていますか、いつも

四旬節第5主日:わたしは復活であり、命である。このことを信じるか

イエスはマルタに彼女の信仰宣言を要求なさいます。「信じる」ということは、人間の常識では考えられない神の力、人には隠された神の計画を信じるか、という問いかけです。
2019年/C年説教=召ばれています、いつも

四旬節第5主日:人はゆるされて成長し、他者に開く度量も備わっていく

強調したいことは、人には他人を裁く資格があるのかということ。絶えずゆるされ続けてきた存在です。律法学者たちも、そのことに気づかされたのではないでしょうか。悪だくみを考えつつ、自らの何たるかに気づかされ、最終的にはイエスに救われたのです。
2018年/B年説教=神への道標

四旬節第5主日:「自分のいのちを憎む」とは?命の無限の価値に注目しよう

自分を中心とした心の動きを否定し、神中心の動きがある限り、周りへの影響力は増大します。他者にいかに踏み台にされたとしても、その人の命の尊さに、重さに傷はつきません。逆に、豊かな実をもたらします。
2017年/A年説教=神のふところ

四旬節第5主日:文化は違っても、その文化の中で人は神に向かっている

西洋の「罪の文化」と日本の「恥の文化」という表現があるようにその環境は違っていますが、生きている「人」は「人として」同じです。神に向かっているのです。神によって、人としての生き方、信仰に、今必要な中味を上乗せしていただきましょう。
2015年/B年説教=イエスのこころ

四旬節第5主日:イエスさまが伝えようとされたご自分の死の意味とは?

それは、一度自分を否定すること、そこに新しい命へと変容していくイエスさま本来の「死」の意味が込められています。つまり、自分の姿(一粒のまま残る)を消していく中に、死んだままでは終わらない復活(豊かな実)の結びがあります。
2016年/C年説教=神のぬくもり

四旬節第5主日:イエスと出会って新たな一歩を踏み出す力を願いましょう

これを聞いた人は一人ひとりとその場からいなくなってしまいます。この女を裁く人は誰もいなくなりました。イエスさまは「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われます。
2011年/A年説教=神のみことば

四旬節第5主日:マルタと同じように必死な叫びをあげつつ、その力と恵みを祈りましょう。

マルタの叫びに対して、イエスさまは「わたしは復活であり、命である。このことを信じるか」とマルタに迫ります。ここが、今日の福音の中心です。この言葉によって、イエスさまは、ご自分の人生のありようを宣言なさっているのです。
2014年/A年説教=神のたしかさ

四旬節第5主日:イエスに「自分の殻から出て来なさい」と、招かれている

四旬節は回心、つまり、自己中心からの転回が求められ、新たな自己発見が叫ばれています。ラザロが出ていくために、墓の石が取りのけられました。同じように、わたしたちが出ていくために、邪魔になっているものはないでしょうか。
2013年/C年説教=寄り添うイエス

四旬節第5主日:人の原点は神に愛され、ゆるされ続けていることです

人は人を「罪人」であると判定できません。同じことをしでかす弱さを持ち合わせている人間であるとわかっていても、神はゆるし続けるのです。ゆるされ、愛され続けている「わたし」を実感したいですね。
2012年/B年説教=主との出会い

四旬節第5主日:イエスの教えは自己愛の否定で新たな命の息吹を

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のまま残るが、死ねば豊かに実を結ぶ」。イエスさまがこの話で伝えたいことは何でしょうか。「自己愛の否定」自分が自分であり続ける限り、新たな命の息吹はありえないのです。
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