
説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神
十字架称賛の説教=ヨハネ3.13~17
2025年9月14日
「うたれたシカに思いよせ」小学校一年生が書いた夏休みの作文が、絵本になりました、というニュースが掲載されています。(南日本新聞2025年9月8日朝刊)
その小学校一年生とは、現在、宮城県気仙沼市の唐桑小学校五年生になった畠山凪さん(11歳)です。凪さんが小学校一年生の時に書いた作文が、「にんげんばかりそばをたべるのはずるいよ」という絵本になって話題になっています。
凪さんは、家族で耕した畑にそばの種をまき、おいしいそばが食べられるのを楽しみにしていました。でも畑の近くにはシカがいて、そのシカもそばの実が大好きでした。そんなある日、罠にかかって動けなくなったシカを、凪さんの目の前で、猟師さんが撃ち殺したのです。畑のものを食べてしまうから、というのですが、凪さんは思いました。「シカにもそばを食べてほしい」。そして最後にこう書いています。「にんげんとシカがなかよくなったらいいです」と。
作文に書いた考えは、五年生になった今も変わっていないと言います。
「クマも人間をおそったりするけど、人間はクマのすむところをうばっている。シカが畑のものを食べるのも同じ。どっちもどっち。同じ動物なんだから、分け合ったらいいのに」と考えを述べています。
この作文に目を丸くしたのが、おじいさんの畠山重篤さんです。重篤さんはカキを育てる漁師。海に恵みを与えるのは、山から流れてくる豊かな水だという考えから、山に木を植える活動をずっと続けてきました。「森は海の恋人」という本も書いている、有名な環境活動家なのです。
重篤さんは作文を読んで「一生に一度しか書けない作文。凪、その通り、その通りだよ」という言葉を残して4月、病気で亡くなりました。重篤さんが出版社に紹介し、本になると聞いたとき、凪さんは「ほんとうか?!」と驚いたということです。
人のやさしさ、思いを寄せることのできる心の広さ、温かさを感じさせる話です。凪さんの祖父・重篤さんが「一生に一度しか書けない作文」と言われたこと、これは、人が見せる最高の「人らしさ」の瞬間ではないのでしょうか。いわゆる邪念なき純粋な心のありようを見せてくれたのです。誰もがこのような心を持ち合わせているということです。子どもたちに「価値評価」の比較という考えはないのです。つまり、「価値」の優先順というか、より価値あるものを、という選択肢が、子どもの思いの中にはないのです。

だから、まっさらの愛情、ストレートな思いやり、誰もが一度は体験する成長のひと時の期間ではないでしょうか。これがまた、本来の人間の姿でもあると言えるのではないかと思うのです。天の国においては、みなが駆け引きのない愛の関係にあるのではないかと想像し、そうであると思っているからです。
そう思える根拠になる出来事、それが今日お祝いするイエスの十字架です。きょうのみことばを通してわかること、それは、十字架は、神の思いを人々に伝えるためのしるしとなっているのです。きょうの第一朗読に次のようにあります
「民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」( 民数記21章4~5節)
そして神は、炎の蛇を送り、民はその蛇に苦しみます。蛇は民をかみ、民の中から多くの死者がでました。罪を犯した民は、神が送った炎の蛇に苦しみますが、罪を認め、モーセに執り成しを求めると、神は青銅の蛇をつくり、それを「旗竿」の先に掲げるようにと指示を与えます。蛇にかまれた者がそれを見上げると命を得ることが出来ました。
この「旗竿」は旧約聖書では二通りに用いられました。ひとつは、神が イスラエルを懲らしめるために異邦の民を集める時のしるしであり、もうひとつは、逆に神の救いの力を異邦の民に示すためにイスラエルを集結させるためのしるしとして使われます。いずれにしても、神がその思いを人に伝えるためのしるしになっていました。
ヨハネはこの「旗竿」に十字架を重ねています。いわゆる、それは罪を認めて見上げたものに命を与える神の愛の現われです。神の視点から見た十字架の意義は、独り子を与えるほどに、この世に対する深い愛を示されているということです。「この世」とは言うまでもなく、わたしたち人間のことです。滅びに向かいさばきを免れない「わたしたち」でありますが、神はその「わたしたち」をお見捨てになれなかったのです。
まさに、神のこうした人間に対する無限の愛を感じさせる同じ愛を、凪さんの「にんげんばかりそばをたべるのはずるいよ」の絵本の思いに重ねてみるのは、次元が違いますか。飛躍していますでしょうか。
人は成長していく過程で、「神に似せて創られた」と思わせる姿を見せているのです。それを見て、知って、みな感心したり、感動したり、衝撃を受けたりします。人そのものを過小評価しているところがあるのではないかと思うときがあります。
その価値が神に向けられていると、さらに最高の価値を発揮する、そんな存在が「わたしたち」一人ひとりなのです。
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