主の洗礼(C年)の説教=ルカ3・15-16、21-22
2025年1月12日
新年が始まって半月が過ぎようとしています。昨年ほどにびっくり騒がさせるようなほどの出来事もなく、いつもの感じで時が過ぎてきました。ただ、今、皆の関心事になっているのが、アメリカの次期大統領・トランプ氏の就任のことでしょうか。期せずして、2025年の社会経済の動向は、このトランプ氏の一挙手一投足にかかっているとまで言われ、騒がれているからです。世界中がトランプ氏の動きを注視しているのです。というより、気になってしょうがないという感じです。
彼の「ワンマンぶり」は就任する前から全開ではないんでしょうか。いや、そうなるように、周りが仕向けているような気がしてなりません。大統領の仕事ってどんなことを言うのでしょう。「暴れん坊将軍」ではありませんが、「庶民のために奉仕すること」ではないのでしょうか。そのために巷に出向いて庶民のニーズに敏感になること、そこから施策を考案し、ついに庶民の生活に資する将軍吉宗の姿は、現代のリーダーへの提言になっているような気がしますが、・・。所詮、テレビドラマの話なんですね、・・これは。
いずれにせよ、世の中心的な立場にいる人が、本来の動きをすると全体が動き出します。それが社会的なうねりとなり、全土に及ぶほどの力強い波となっていきます。そして人々には安心感が宿り、ますます自信が増大し、皆がともに喜び、楽しむことのできる運動へと発展していきます。
そのような動き、うねりを起こした人がいます。その中身を報道新聞より抜粋しますと次のようです。
(南日本新聞2025年1月7日朝刊)
鹿児島市出身。鹿児島大学卒業後、県庁に入庁。介護福祉課長時代、現場に積極的に足を運んだ。『当事者同士や社会とつながりながら、生き生きと過ごせる仕組みや場所をつくりたい』と2020年に副町長に就任した。
町民を巻き込み、NPOなど約70人が支援プロジェクトを進める。週に一回の認知症カフェ、小学生との交流、移動図書による普及啓発活動などは全国からも注目されており、『今後もみんなで一緒に取り組みたい』と語る。」
有村副町長は、庁舎の自室で仕事に専念するかたわら、町民の間に積極的に出向いてはコミュニケーションを取り、分かち合いをも実践していたのではないでしょうか。介護を必要としている人々との共生を求めて、命の尊さ、その人の存在の大きさ等、お互いに自ずと伝わり合って生き生きと過ごせる場があちらこちらに誕生していく、嬉しかったことでしょう。これにより、また新たな力をいただき、もっと進んだ何かに着手できるようになって、ますますご自分が期待する目標を、町民とともに実現していかれるのではないでしょうか。
なんだかんだ言っても、所詮、人間はどこにいても、いつの時代も、性別を問わず、誰か人を求め、助け合って互いを高め、より豊かになっていく存在です。
イエスの後に民衆がついて行ったという現象は、彼らは、その時イエスを心底求めていたということです。言うまでもないことですが、・・。
イエスも、やはり民衆とともにあることを否定なさいません。むしろ、自らその中に溶け込んでいかれたのです。きょうはイエスの受洗記念の祝日です。受洗する必要はイエスにはないのですが、あえて民衆の中に入っていかれます。救いへの道を民衆とともに歩むためです。
「民衆はメシアを待ち望んでいて・・・」で始まるきょうの福音。この「民衆」については、ヨハネ誕生をザカリアに告げた大天使ガブリエルの言葉の中で言われています。「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」(ルカ1章17節)
洗礼者ヨハネのもとに集まっ群衆や徴税人や兵士たちが「救いを受け入れる準備のできた民」に変えられれば、彼らの目はメシアに集中し、ヨハネがメシアではないかと期待を膨らませるのもうなずけます。しかしヨハネは、その民衆の期待感を否定します。ヨハネは「皆」に向かって話しかけます。ヨハネのもとに集まった「皆」はもちろんのこと、彼らだけでなく、いつの日か「民」となる人たちをも含んだ「皆」をも指し示しています。ルカ自身、そのことを十分に意識し、救いは全世界を覆うべき普遍的な出来事であるという意識が強くあるからです。
この普遍的な出来事であることを「民」に示すために、イエスもその使命遂行に必要な力、つまり神とのかかわりを再確認するのです。ここに、イエスの「受洗」の意味があるのではないでしょうか。
聖霊が降ったのは神からの全権がイエスに移譲されたからであり、天からの声によってイエスの自覚は一層強固にされていきます。
「わたし」の受洗の自覚はどこに、・・・?!
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