2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第29主日:キリスト者は、落胆せずに疑うことなく「絶えず祈る」こと 父である神はいつも祈る者から目をそむけることはなさいません。必ず、しかも速やかに祈りを聞き届けてくれます。だからキリスト者は、落胆せずに疑うことなく「絶えず祈る」ようにと教えられます。 2025.10.16 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第28主日:真の信仰は、「告白」することにより実る 真の救いは「清くされた」だけでなく、「癒された」ことに気づくこと。奇跡はあくまでも「信仰する」ことの入り口でしかなく、その出来事の奥に「いやす方」の指、力を見て神との交わりに導かれていく。そのことを感じ取りたいです。 2025.10.09 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第27主日:人には神の恵みが必要!だから叫ぶ「信仰を増してください」 神は万物の創造者であり、わたしたちは被造物。ですから神とわたしたちとの間には本質的な差があり、わたしたち人間がいかなる努力を重ねたところで神と交わる資格や権利を得ることは出来ないのです。 2025.10.02 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第26主日:財産の保有はどこまでがゆるされるのか。信仰の戦い? この世で生きるわたしたちには、天の国を垣間見ることができません。しかし、神のみ言葉を聞くことはできます。「聞く」ことが救われるか滅びるかの分岐点になります。その結果、「聞く」ことは日常の生き方を変えてくれることにもなります。 2025.09.25 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第25主日:「わたし」の日々の必死さはどこにあり、どこに向いているか 今日のイエスのたとえ話が分かりにくいのは、話の内容と結論が、人間の常識から離れすぎているから。イエスは管理人の不正を見習えと言っているのではなく、ぎりぎりの状況にある自分を意識し、そこから抜け出ようとする「必死さ」を弟子たちに訴えたかったのです。 2025.09.18 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第23主日:全ては神に向かっていてこそ真の価値を持つことが出来る イエスがわたしたちに望まれているのは、相手についての理想の像を捨て去り、自分の夢を捨て去ることによって、あるがままの相手を背負い、あるがままの自分を背負ってイエスに従うことを求めておられます。 2025.09.05 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第22主日:今日、イエスはなにを「わたし」に語っているだろう? 「信仰者」としての成熟度がはかられるのが、今日のみ言葉です。分かりやすく表現しますと「自分自身を高くする者は神が低くするだろうし、自分自身を低くする者は神が高くするだろう」の意味になります。 2025.08.30 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第19主日:「神の約束の実現」を確心し、確認するのが信仰 わたしたちは受洗の時に、神の確かさを受け入れたのです。改めて思い出し、見えないけど確かな未来に進むことが出来ますように、「キリスト者らしさ」を自己確認しましょう。確かさは、わたしたちの信仰にあるのではなく、神の約束にあります。 2025.08.07 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第18主日:生きる軸足を「上にあるもの」に置く。その第一歩はどこに? イエスが言いたいことは何でしょうか。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」と。つまり、金持ちの愚かさの根源は、「自分のために富をつむ」ことにありました。現代に生きているわたしたちはどうでしょうか。 2025.07.31 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第17主日:信仰者の祈りは信頼をもって心を開き、神にすべてを委ねる 神とわたしたちとの関係の始まりは、いつも神ご自身です。神の方からわたしたちへと近づいてくれるのです。人間は順風満帆の生き方をしている時には、神の介入を邪魔もの扱いにしてしまいがちですが、祈りましょう。祈りとは神の姿に勇気づけられ、また、大胆な信頼をもって心を開き神にすべてを委ねることです。 2025.07.24 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第16主日:イエスを「もてなす」ために〉〉〉第一歩は耳を傾けること 今日の二人の行動から見えることは、「神を愛する」第一歩は、神の言葉に耳を傾けること、心をイエスの言葉へ向けることではないかと、・・。救いは「聞く」ことから始まります。 2025.07.17 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第15主日:「隣人」はその時、その時の出会いで新たに作られていく イエスは「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と指摘されますが、隣人はすでにその範囲が決まっているのではなく、その時、その時の出会いで新たに作られていくのです。まずは自分が「隣人」になるのです。自らを開き、新たなコミュニケーションのゆえに出来上がっていくのです。 2025.07.10 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 年間第14主日:宣教=神からの救いが満ちわたるように=シャローム 「この家に平和があるように」と祈るのは、単なる「家内安全、無病息災」を祈るためではなく、むしろ、「神からの救いが満ちるように」と祈るためです。このような平和をもたらす力は、人間が生み出せるものではなく、神が与えてくれるものでなければ不可能です。 2025.07.03 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 聖ペトロ 聖パウロ使徒:自らをよく知って、霊の導きに気づきましょう 両使徒はそれぞれに託された使命を果たし、イエスの栄光を讃え、人々に福音を伝えました。二人に共通するのは、イエスへの信仰が深く強いこと、ことに対して熱心で一生懸命であること、何よりも自らの弱さをよく知っていたのではないかと思われます。 2025.06.27 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 キリストの聖体:ご聖体を通してイエスの気持ちに近づく 「五つのパンと二匹の魚」は弟子たちの現実です。自分たちの力だけに頼るときに、その先には絶望が待っています。しかし、それを一旦ありのままにイエスの手に委ねてから再び受けるなら、すべてが満腹し有り余るほどの豊かさとなります。イエスはその優しさと赦しと愛を与え続けるのです。 2025.06.19 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 三位一体:神の内面の神秘⇒イエスを通してすべてをわたしたちに啓示された 今日は三位一体の主日---わたしたちの知性では、とうてい知ることのできない神の内面の神秘です。神はご自分の内面に留めておくことをしないで、イエスを通して、そのすべてを啓示してくださったのです。 2025.06.13 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 聖霊降臨:わたしたちを、神の子にふさわしく変える神の霊 わたしたちは神に助けを求める方に向いたとき、神の子としてふさわしいものに変えられていくのです。このことを実感し、どう祈ったらよいかを取り次いでくれるのが霊です。「神の霊によって導かれる人こそ、神の子である」 2025.06.06 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 主の昇天:イエスによって、わたしたちは新たないのちに生き始めています 人々はイエスが神であることを見落としていました。このイエスが天に上り、神の右の座に就いておられるのですから、わたしたちは罪の重荷からすでに解放されているのであり、新たないのちに生き始めています。 2025.05.29 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 復活節第5主日:わたしが愛したように⇒自分を無にして相手に捧げつくす イエスの愛は全く純な心で、すなわち、自分を無にして相手に自分を捧げつくすのです。イエスの十字架はまさにそうでした。そのような隣人への愛し方、ここに「新しさ」、これまでの旧約の教えとの違いがあります。 2025.05.15 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神
2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神 復活節第4主日:わたしたち一人ひとりは、父と子にとってかけがえのない存在 信仰者の絆は、羊と羊飼いの間にあるような絆なのです。それは父と子によって支えられる絆です。つまり、羊であるわたしたちは父と子にとって、かけがえのない存在なのです。 2025.05.09 2025年/C年の説教=わたしのすべてを知っておられる神