
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
年間第5主日(A年)の説教=マタイ5・13~16
2026年2月8日
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイ20章26節∼28節)
かつて神学生時代に、教授がこの言葉をよく口にしたものです。「仕えられるためではなく仕えるために」。このような司祭を目指してください、と。どの仕事においても、「初心忘るべからず」と言われますが、その「初心」が、同じ仕事に就いたとしても、その仲間みなにとって同じということもありません。でも、その仕事の大切なところ、本質的な部分を抑えているのは確かであろうと思います。それだけ純粋なわけですよ。やる気満々ですよね。
時を経て自分がやってきたこと、その歴史を振り返ってみる時に、これでよかったのだろうかと後悔の思い、残念な思い等が頭をもたげてくることが多々ある様な気がします。何年と時を経過しても、「初心」は間違っていないということです。
改めてこの言葉を検索してみますと、
「謙虚であった心」とあります。「慣れる」というのは、ある意味怖いものですね。初期の時より発展したほうへ引っ張られているのであればいいのですが、自分でも気づかないうちに、それこそ「初心」とは程遠い逆の心、「傲慢心」へと誘導されてしまうんですよ、多くの場合。それだけ「慣れる」ということは、それ自体は良いことではあるんですが、何かに巧みに操られているんですね。だから自己を振り返ることはさらに大事になってきます。仕事は楽しく果たしていければこの上ない充実感を抱きます。自己満足的なことだけを言っているのではなく、他者が「わたし」の仕事によって助かり、喜んでくれるとなれば充実感は倍加します。そのために、わたしたちは奉仕する仕事(司祭職、医師、看護師等)に従事しているからです。仕事はみなそうですけど、・・。
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」(マタイ5・13~14)
きょうの福音書は、イエスのこの言葉で始まります。いきなりこのように言われたら、その人はどのように思うでしょうか。でもその実、この「わたし」に言われているんです。何を言いたいんですか、と逆に質問したくなりませんか。「地の塩、世の光」、いずれをとっても、世界に対して塩としての役割を意識することもなく、世の周りの人々の心を清める代わりに汚し、踏みにじり、心の明るさをうばってしまうのが現実ではないかと、これまでの「わたし」を振り返りますと戸惑ってしまいます。

正直に、そして謙虚に自分を見つめることのできる人は、自分が地の塩、世の光になりえない自分であることを告白せざるを得ないのではないでしょうか。
清さを失い、光を失った世界。旧約聖書の物語は、いろいろな形で指摘しています。
「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。 お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して 土は茨とあざみを生えいでさせる、 野の草を食べようとするお前に。」(創世記3章17∼18節)
「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。 神はノアに言われた。 「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。」と。(創世記6章11∼13節)
パウロも次のように指摘しています。
「わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。 悟る者もなく、神を探し求める者もいない。 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。 彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。 口は、呪いと苦味で満ち、 足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。 彼らの目には神への畏れがない。」(ローマの人々への手紙3章9∼15節)
パウロは極端なまでの表現を使って、世の汚れと腐敗を書いています。それも、わたしたち人間がその中心にいます。わたしたち人間が、自分のエゴイズムと欲望を抑え、まことの愛の炎を点じない限り、この世の腐敗を清めることは不可能です。
しかし、わたしたちには自らの力では、それはできないのです。できるとすれば、神の働きかけがあって初めて、できるのです。それは聖霊の働きです。この恵みを受け入れることによってはじめて、心の欲望が清められ、人々の労苦を背負っていける力が育っていきます。そうなれますように神の前に跪き、謙虚に祈り続けましょう。
イエスとの関りに生きようとして集まった人は、すでに「地の塩、世の光」なのです。塩味という役割を担い、世の光となるように、すでにいただいている光を輝かすことによって、初めはおぼつかなくても、徐々に成長していく自らを確認したいですね。
イエスに招かれた時の「初心」を確認し、前に推し進めて生きましょう。


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