
説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神
ラテラン教会の献堂(C年)の聖書=ヨハネ2.13~22
2025年11月9日
「人の五感とは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五つの基本的な感覚機能を指します。 これらの感覚は、私たちが外界の情報を認識し、周囲の世界を理解するための重要な役割を果たしています。視覚は光を通じて形や色を認識し、聴覚は音を感知し、嗅覚は化学物質を、味覚は食べ物の味を、触覚は圧力や温度を感じ取ります。」 (ワード辞典)
そして、その五感による感じ取り方は、一人ひとりによって感じる度合い、受け止める内容の濃淡についても個人差があります。だからこそ、その結果に即座に白黒つけるのは、物事への見誤り、人への誤解、偏見を与える機会となってしまいます。また、その感じ取り方によって生まれてくる、その物事への観念、いだく考えや意識等にも影響してきます。
きょうの福音書の、イエスとユダヤ人とのやり取りには、こうした受け止め方からくる食い違いがあって、両者が正面からぶっつかり合っています。というより、対立のきっかけはイエスの方が作ったということが出来ます。
過ぎ越しの祭りが近づき、たくさんの人で賑わっている神殿の庭に入ってきたイエスは、いきなり、しかも強引に商人たちを追い出したのです。一般的な言い方をすると、イエスの方から喧嘩を吹きかけたといっても過言ではないでしょう。
過ぎ越しの祭りはモーセの時代にさかのぼります。ユダヤの人々にとっては長年慣れ親しんできた伝統的なお祭りです。その庭にいけにえのための牛や羊を売る店や通貨を両替する店も並びます。それは公に許されていることでもありました。人々もそれに馴染み、誰も疑問を抱く人はいません。そこにイエスは要するに、「いちゃもん」をつけに神殿の中庭に入ってきたのです。
しかも、ユダヤの人々の誰もが疑問を抱いていない神殿のありさまに、イエスは「縄で鞭をつくり」おいだしにかかったのです。イエスの強固な意思を感じさせます。彼らが幾世紀にもわたって伝えられてきた伝統と習慣にケチをつけられたわけですから怒るのも当然でしょう。「ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。」とイエスに反論してきたのです。

お互いの意見と思い入れの違いから、その対立は埋められる余地がありません。その対立が激しくなっていく中で、イエスは彼らの反論に対して、さらに追い打ちをかけます。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と言い返します。
そもそも、イエスがこのように強固にまた強引に、ユダヤの人々と対立してまで、神殿のありさまにこだわったのはどうしてだったのでしょうか。
エゼキエルが今日の第一朗読で説くように、神殿はすべてのものに命をもたらす神の住まいです。エゼキエルがみた川の流れは主の栄光を表す象徴だったのです。乾いた荒れ野も、生き物を寄せつけない死の海も、主の栄光に触れるとき、息を吹き返し、豊かないのちを育む場所に変えられます。
しかし、それは容易に人間の欲望の住まいに堕落してしまいます。人間がかかわっている限りいつの時代もこのような危うさをはらんでいるといえます。今は亡き森一弘司教が、かつて、おっしゃったことを思いだします。「現代の教会はサロン化していないか」と。
「サロン化する」とはどんなことでしょう。
「『サロン化する』とは、特定のコミュニティや興味を持つ人々が集まり、情報を共有したり、活動を行ったりすることを指します。サロンは、もともと社交の場を意味し、文化人や知識人が集まり、知的な交流を行う場として発展しました。現代では、美容サロンやオンラインサロンなど、さまざまな形態で「サロン化」が見られ、地域社会やオンラインでの交流の場として重要な役割を果たしています。」(Turinng Technologies)
一言で言えば、「交流の場・まじわりの場」ということができるでしょう。「教会堂」は物理的には確かに皆が集まり、互いの交わりの場です。でも本来から言えば、先ずは「神との交わりの場」であり、心身の安らぎを神に求めて集まってくるのではないでしょうか。信仰するという志を一つにする仲間がさらに親交を深め、高めていく、そして、各自が人間としても、さらには、信仰者としても、より成長していく「交わりの場」であるのです。
それがどうでしょう。今の教会堂は単なる社交場になってはいませんでしょうか。ミサの時は典礼が執り行われますが、終わると、瞬く間におしゃべりが始まってしまいます。ごく普通に朝のあいさつから始まり、世間話に花が咲きます。単なる社交場と化してしまうのです。静かにミサの余韻に浸りたい人がいるにもかかわらず、・・です。森司教の嘆き節が聞こえてきそうです。
さらにイエスは、今日の福音の中で度肝を抜かれるような言葉を発します。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と。するとユダヤ人は「『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。」というのです。
イエスがここで言いたかったのは、ご自分のこと、つまり、旧約の神殿を壊し、ご自分こそが神と人間とが交わる新しい神殿である、ということだったのです。わたしたちのすべての叫びと祈りが、イエスの中で受け止められ、イエスを通して天のおん父のもとに昇ります。そして、イエスを通して神の恵みがわたしたちを包んでくれるのです。
罪人であるわたしたちの人生と、わたしたちを救おうとされる神の愛が、イエスの中で一つとなるのです。教会堂という建物にもイエスが待っています。五感を持つわたしたちには大きな助けです。
きょうの「ラテラン教会の献堂」の祝日は、ラテラン大聖堂がペトロの後継者であり、ローマ司教である教皇の司教座聖堂であり、さらに、カトリック教会の頭なのです。それで全世界のカトリック教会は、献堂のこの日に唯一の教会に結ばれて人々に豊かな救いの恵みが与えられますようにと祈ります。


コメント