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年間第25主日:「わたし」の日々の必死さはどこにあり、どこに向いているか

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年間第25主日(C年)の説教⇒2025/09/21

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

年間第25主日(C年)の聖書=ルカ16・1~13

2025年9月21日

少子高齢化の急速な進展に伴い、老後に安心して暮らせる住まいの確保が喫緊の課題に陥っている我が国・日本。人口減少の波は今に始まったことではありません。もうかなり前からの課題です。

「コロナ禍は、人口減少を加速させることになったが、同時に付け焼き刃的な人口減少対策を浮き彫りにした。

日本の総人口がピークを迎えたのは2008年の1億2808万人であるが、実質的な“人口減少元年”を調べてみると、東日本大震災が起こった2011年である。この年を境にして前年の人口を上回る年は見られなくなったからだ。

しかしながら、各企業が人口減少に危機感を覚えたのはもう少し前であっただろう。消費や働き手の中心世代である「生産年齢人口」(15~64歳)が1995年の8716万人を頂点として減り始めたためである。その後、生産年齢人口は下落傾向が続き、2020年10月1日(概算値)は1995年と比較して、1250万人も少ない7466万人にまで落ち込んだ。

総人口に占める生産年齢人口の割合も1992年の69.8%をもって下がり始めている。2018年にはついに6割を切る水準にまで下落し、2020年は59.3%(概算値)となっている。」(現代ビジネス)

以来、人口が増加することはありません。その結果、さまざまな問題が新たに起きているように思います。その一つが、先に述べたように、高齢者の増加に伴う老後の住まいの確保です。一人暮らしの高齢者が増える一方で、過疎地では人手不足や物価高騰で介護施設が存続の危機にあるといいます。

政府が決定した地方創生の基本構想では、単身高齢者や高齢夫婦らの個室を備えた小規模なシェアハウスが想定されています。社会福祉法人やNPO法人などが運営し、介護施設や障害者グループホームを併設します。また、地域住民が集う交流の場にも位置づけ、地方創生の交付金で補助するとなっています。そして、地域活性化にもつなげたい考えを示しています。(南日本新聞2025年9月15日)

さて、今日のイエスのたとえ話は、非常に分かりにくいです。話の内容と結論が、わたしたち人間の常識から離れすぎてしまっているからでしょう。主人の財産を管理する一人の男の話です。

年間第25主日:どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない
年間第25主日(C年)の聖書=ルカ16・1~13 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕 《「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』

「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』」といって、その管理人を辞めさせようとします。これは現代でも同じことが言えるでしょう。彼の役割は何といっても、主人に忠実であるということでしょう。その彼が、主人の彼への期待を裏切ったことになります。管理人は、自分がしたこと認め、職を奪われることを覚悟したのです。その時の心境が語られています。

「管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』」と。

そして、負債者に証文を書き直させます。書き直させた背景には、当時の商い習慣があるとされます。律法では同胞から利子を取ることは禁じられていました。が、現実には、負債額に利子分を上乗せした額を負債総額とする証文を作成していたようです。管理人は、書き直させたのは、この利子分を差し引いたのであり、不正を働くどころかイスラエルが守るべき律法に立ちかえったのです。言うまでもなく、負債者の皆は大喜びです。また、主人にも感謝の思いと言葉があったことでしょう。そこで主人は、この管理人が自らの窮地を脱するために思いついたそのやり方を誉めざるをえなかったのです。

イエスは、このたとえ話を通して何を語りたかったのでしょうか。話の相手は弟子たちです。イエスの人格の魅力にひかれて集ってきた人々です。その彼らの姿に、緊迫した動きもなく、どちらかといえば余りにものんびりした、どこか心のゆるみを感じ、もどかしさを感じていたのです。だからこそ、危機の迫った一人の男の必死に生きようとする姿を、恥も外聞も捨てて生き抜こうとする管理人の姿をあえて取り上げたのではないでしょうか。

イエスは管理人の不正を見習えと言っているのではないでしょう。ぎりぎりの状況にある自分を意識し、そこから抜け出ようとする「必死さ」を弟子たちに訴えたかったのです。結果的には、管理人は主人の財産を減らしたのでもなく、負債者も主人も「はなまる」の状態に収まったのです。

高齢者の住まい確保が厳しい状況にある現代。一人ひとりは生き抜いていくのに必死です。行政サイドも一生懸命の応援を惜しまないでしょう。それでも、一人ひとりが満足できる住まいはなかなかです。その必死さは当事者のみならず、周りの人々にも伝わり、その中から何かが生まれてくることを願っています。

要は、「この世の富」は蓄えるためではなく、「友をつくる」ために蓄え、賢く活用すること、これが永遠の住まいに迎えられるために実行する「わたし」の生き方です。

そうありたい。イエスの望みはそこにあります。

 

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