
説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神
死者の日の説教=ヨハネ6・37~40
2025年11月2日
わたしたちの人生は、どこまでも「安定した平和な日々と、安全な日々」がいつまでも続くようにと望むことは、人間として当然の願いです。とはいっても、そこに人間の究極の幸せはありません。経験上でよくわかっていることです。
それでも、安定した生活が、一人ひとりの生きるエネルギーとなり向上心が高まってくることは確かです。願わくは、そのことが利己的でないことを願っています。自分さえよければいい、と思って他者を軽視して生きる人、そこにすでに「幸せ崩壊」の根っこが潜んでいます。
きょうは「死者の日」です。亡くなられた方々を思い起こしながら永遠の幸せを祈り願う日でもあるでしょう。

イエスはその短い生涯の中で、数多くの人たちと交わりを持ち続けました。その中で、何が一番ご苦労なさったのかなと思うときがあります。イエスを自分のレベルに引き下ろすわけではありませんが、わたしたち人間と同じレベルまで、自ら降りてこられて、わたしたちと生活を共にされた方だからこそ、同じレベルでその心を思ってみることができるというものです。
そして思ったのです。多くのことに悩まれたことではないと思いますが、なんといっても中でも特筆できるものといえば、人間の目まぐるしく変化する「利己的な思い入れ」、いわゆる「わがまま」ではないかと。人は自分の都合に沿って考え方、振る舞い方等、さまざまです。その上、いけないと知りつつも、自分の思いに沿って行動したり、時には、わざと反対のことをしでかしたり、自らの好みを優先させて他者を無視したりと、やりたい放題です。本当はそうではないのに、全く天邪鬼(あまのじゃく)的な言動に出てしまいます。
「天邪鬼」な人は、頑固者です。自分の意見がいちばん正しいと思っていたり、それを変えることが悔しいと思っている節があり、誰かに「それって、〜じゃない?」と指摘されても、「ちがう!」と認めません。一度、「天邪鬼」になってしまうと、どんな代案を出しても「それは違う」「これは違う」といちいち否定し始めます。「天邪鬼」な人は、人と違うことをして目立とうとしている場合があります。実は、意見も内容にも興味がなく、ただ単に人と同じが嫌なだけ。「天邪鬼」な人にはそんなことがよくあります。ゆえに、意見自体はまったく辻褄が合わない… なんていうことも多いのです。たとえば、好きなのに嫌いなふりをする子どもっていますよね。素直になれないのは、恥ずかしいからです。「天邪鬼」な人は、恥ずかしがり屋が多く、素直に「ありがとう」と言えなくて意地悪をしてしまったり、「やりたい」と言えなくて、その場を混乱させることを言ってみたり…。ある意味では子どもっぽい人だともいえます。」(Oggi.jp)
きょうの福音でイエスは会衆の思いが、地上にしか向いていない現状を知り、会衆に向かって、その正面から彼らの思いの転換を求めます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と。(ヨハネ6章27節)
ところが、彼らの心は頑でその「思い」を変えることはできません。それどころか、あつかましくもイエスに迫っていくのです。「彼らは言った。『それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」と。
これに対してイエスは、「神の思い」をぶつけます。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」と。
したがって、「永遠の命」が「イエスを信じる」ことにあるということが大事です。イエスを信じるということは、イエスとの信仰による交わりです。つまり、究極の救いはモノをたくさん持っているとか、生活が裕福だからとか、その生活の在り方にではなく、交わりにあるということです。神の思いと人間の思いとが違うということを、一番実感しているのは死者たちではないでしょうか。
「死者の日」に当たり、彼らのために祈るかたわら、語ってみてもいいのではないでしょうか。さあどんなに語ればいいのか、一人ひとり考えてみるのもまた、祈りになりはしませんか。今を生きているわたしたちは、きょうの福音からイエスのメッセージを受け止めようとすれば、一つは「人の思い」だけに支配される生き方ではなく、「神の思い」によってわたしたちの歩む道を照らす努力を怠ることのないようになれますように、・・。
・・・永遠の命を得るために。


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