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受難の主日:人間の醜さの中で浮かび上がるイエスの愛、やさしさ、平和の原点

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受難の主日(C年)の説教⇒2025/04/13

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

受難の主日/枝の主日(C年)の説教ルカ23・1~49

2025年4月13日

「『ちはる』に感謝状」、の大きい見出しで紹介されているのは、出水の観光牛車として10年間活躍した黒毛和牛のお別れ会です。「ちはる」はその任務を終え、3月11日に亡くなったとのこと。この度、市から感謝状が贈られたというのです。出水麓歴史館前で開かれたお別れ会に、約70人の参加者が長年の功績に感謝しました。

お別れ会で椎木伸一市長は「観光の看板として頑張ってくれた。心から感謝している」とたたえ、牛を提供した同市上大川内上場の前田農場、前田淳子さん(64歳)に感謝状を手渡しました。この日は後継となる雌2歳「いずみ」の出発式もあり、乗客10人を乗せデビューしました。運営するNPO法人いずみ観光牛車会の得永小夜子さん(64歳)は「ちはるちゃん同様に愛されてほしい」と語っておられます。

このように、動物が感謝され、讃えられ、大事にされるのはとてもいいことですが、同じように、否、それ以上に、人間に関心が向いてもいいのではないかと思うときがあります。というのは、「人」に関するエピソードが少なくなったなと感じているからです。あるといえば、悲しい、残念な事故事件のニュースで占められています。

最近では、動物愛護の気運が高まり、動物をかわいがる家庭も増えてきたのではないかと思います。いわゆる、ペットとして手元に買い求めてしまう方が多くなりました。実に、もうしっかりと家族の一員です。

動物愛護の歴史をさかのぼると、イギリスが「近代的な動物愛護運動」の発祥の地と言われています。それは、1822年に成立した「家畜の虐待と不適当取り扱い防止条例」によるもの。18世紀のイギリスは、ヨーロッパの中で最も動物に対して残酷な国だと言われていたけれど動物愛護運動をまっさきに始めたのも、実はイギリスだったんです。

ところで、そもそも動物愛護とは、動物の命の尊厳を守り、不必要に殺したり苦しめたりすることのないように扱い、その生態や習性を理解して適切な管理をすることです(SpaceshipEarth)

日本は動物愛護というものを人間の視点である「かわいがる」や「かわいそう」という観念化をし、主に「かわいがる」部分を世論に広めてきました。(kspca.sakura.ne.jp)それゆえでしょうか、動物愛護イクオール「かわいがる」、という感覚が、わたしたちには身についているような気がします。したがって、「かわいがらず」に「かわいそうな」ことをすると、動物虐待というふうに言われてしまいます。

受難の主日:父よ、わたしの霊を御手にゆだねます、と言ってイエスは息を引き取った
受難の主日/枝の主日(C年)の聖書=ルカ23・1~49〔そのとき、〕民の長老会、祭司長たちや律法学者たちは立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そして、イエスをこう訴え始めた。

 今日は主の受難を黙想し、感謝する日です。典礼季節は聖週間に入ります。イエスはイェルサレムに入場します。そして人々はイエスをしゅろの枝をもって歓呼のうちに迎えます。とはいっても、イエスのあゆみは確実に十字架の道へと向けられています。

 福音書は皆の福音記者が丁寧に語っている「イエスの受難」が、きょうのテーマになっています。きょうの主日の福音は、ルカ固有の表現箇所を取り上げてみたいと思います。ルカは全体的に異邦人に対する救いのメッセージを大事にしています。対象が広いです。そして、よくご婦人たちが登場します。他の福音書には表現されていないことばが婦人たちに向けられています。

「イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」」(ルカ23・28-31)

無罪でありながら刑を強いられているイエス。普通に見れば、心は乱れ、不正な裁判に対する怒りと恨みがあってもおかしくはないのに、仮にそれを表現したからといって、刑がなくなるはずもありませんが、イエスにはそれが全く見当たりません。別の言い方をすると、イエスを傷つける人々の悪意がどんなにひどいものであっても、イエスの人々への愛の豊かさを乱し崩すことはできなかったということです。

さらにこのことを証明する出来事が起きました。それは、イエスがご自分を十字架につける者たちのために祈った、ということです。

〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。〕(ルカ23・34-38)

イエスの心の美しさは、人間の心の醜さが深まれば深まるほど、浮かび上がってきます。

人間の暴力にも憎しみにも、愛をもってこたえていくイエスの中にこそ、平和の原点があるのではないでしょうか。

動物虐待がゆるされないそれ以上に、人間に対する虐待はいただけません。十字架刑は、まさに「虐待」の連続ですといえないでしょうか。。

虐待の中に輝くイエスの愛を、やさしさを、感謝してお受けできますように。  

 

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