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復活節第5主日:「時」は、人の常識を超えた神の業に気づくとき

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復活節第5主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

復活節第5主日(A年)の説教=ヨハネ14・1~12

2023年5月7日

わたしたち人間は、利口に創られていながら、どこかでポカをやってしまいます。それがまた人間らしいのでしょう。だから生きること、働くことが楽しく、いつも先に先にと期待を持ちながら、「今」を生きることができるのでしょうね。さらにそれが、より充実した、実のある日々を重ねることができるようになっていくのでしょう。

何も特別なことをするわけでもない。だからといって、日々の生き方に大きな変化があるわけでもない。ただ、「いつも平平凡凡ですよ」というだけです。そのようであっても、毎日が「楽しい」と感じることを、大事にできればいいのですが、・・。

この度の新型コロナの感染症の流行により、その「平凡さ」がいかに尊く、大事なことであったかがよくわかりました、と言う方が次から次でした。何か異常事態になって初めて、いつもの日常の何でもない、平凡な日々がすごく、そしていかに大事なのかが見えてくるのです。でも、人間に「慣れ」というものは怖い代物です。いつしかその状態に慣れてきますと、何の違和感なく現状を受け入れていきます。というよりも、受け入れざるを得なくなっているんですね、いつの間にか。これまた、人間らしいんですかね。

「二年生になるまでに、一年生に頼られる先輩になれるように努力したいと思います」とその決意を表明しているのは、この春、晴れて中学生になったばかりの服部蓮花さん(鹿屋市細山田中1年)です。入学して間もないとはいえ、今は何の心配もなく不安も一つもないそうです。服部さんの楽しみは、学校の図書館にはたくさんの本があり、そこにいるだけでワクワクするといいます。とにかく「頼られる先輩に」なることが、当面の望みのようです。(南日本新聞2023年4月28日朝刊)きっといい先輩になることでしょうね。

また、「いつかではなく、行けるときに出かけて楽しみなさい」と両親の言葉通りに動いている自分を発見する、とおっしゃるのは薩摩川内市にお住いの遠矢智子さん(64歳)です。(同上紙)夏休みに泊りがけの旅行によく連れて行ってもらったり、家族でよく行楽日和に海や山へ出かけたり、潮干狩りや山菜取りも楽しんできました。それで今も、両親の言葉通りに「行けるときに」人生を楽しむようにしているといいます。

復活節第5主日:心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
復活節第5主日(A年)の福音=ヨハネ14・1~12 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。

わたしたちに与えられる「時」は、限られています。生きている限りの時間です。しかも動いて回るためには心身ともに元気でおれるときです。

イエスにとっても同じく限られた「時」の中で生活してきました。その「時」の過ごし方は、ひたすらご自分の使命を遂行するために備えられていったのです。

そのご誕生に始まって、幼少時代の様々な生活体験、ヘロデからの迫害、それから逃れるためのエジプトへの避難、弟子たちの召命、民衆への宣教活動並びに多くの奇跡・説教など、すべてがご自分の救いの神秘の完成へと向かうものでした。イエスの救いの業が完成する最終段階にきました。それが、これから続く受難と復活の体験であるということができます。

イエスにとっては救いの神秘の完成へと向かう時であり、弟子たちにしてみますと、イエスに対する信仰の試練であるということができます。弟子たちはみな、この試練に揺さぶられ、そして、それを耐えて乗り越えることのできる人がいたでしょうか。皆無です。現にイエスを捨てて、否定して逃げて行ったのでした。

今の時代に生きているわたしたちは、日常生活の中で、このような場に遭遇することが多々あります。何かを、期待した人・ことが、あまりにも自分が想像していた以上に無残な姿・ことにでもなったらどうでしょう。期待していた内容ともども吹き飛んでしまいます。しかし、こうした出来事を、神とのかかわりの中でとらえ直してみることがあるでしょうか。わたしたちに与えられた毎日は、イエスに対するわたしたちの信仰の試練の場でもあるのです。

確かに名実ともに、物事と、人とのいいめぐりあわせの時が、そう簡単に、安易に得られるものではないことはよくわかっています。それだけに、わたしたちとしては準備周到に、より慎重に、より賢明にその「時の巡り」を待ちます。それは、わたしたちが信仰者としての日頃の生活の中での出来事です。

弟子たちのイエスへの裏切りも、イエスへの信仰告白も彼らの日常生活の中であって、弟子たちの人生の一部になっています。だから、イエスの十字架は、それまでの彼らの信仰が本物ではなかったということを暴いてしまったのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(マルコ4章40節)。これまでも何度となく弟子たちの信仰のなさを指摘し、叱ってきました。でも、彼らの不信仰を暴きながらも、イエスはあきらめることなく、本物の信仰を語ることができるように働きかけてくれるのです。今日の福音の冒頭にある通りです。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。

イエスにべったりと寄りかかってきた弟子たちだけに、イエスの毅然とした姿、力強さにあふれたこれまでのイエスとは違う姿を眼前に見てしまうと、その落ち込みは大変なものでした。自分たちの生涯を完全にイエスに託した生き方をしてきたからです。それだけに彼らのこの試練は耐えきれないほどのものでした。

それでも、その闇をも乗り越える力がイエスとともにあることを信じ、受け入れていくようにと弟子たちを励まし続けられるのです。

今のわたしたちに対しても同じです。しかも一人ひとりに対して。だからこそ、わたしたちに与えられている「時」の大切さ、しかも、そこに人間常識を超えた神の業があることを受け入れ信じていきましょう。

 典礼季節はこのことを思い出させてくれます。

 

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