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年間第6主日:表を繕うことではなく、心の中から清めていくことが大事

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年間第6主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第6主日(A年)の説教=マタイ5・17~37

2023年2月12日

現代は簡単、便利に成果を求めがちだが…

わたしたちにとって、何かをする時に、すごく簡単に、そして、便利にそのことをなして、成果を挙げることができれば、とてもいいことです。なんといっても時間の節約にもなるし、その上、気分もよくなりますよね。そして、次はもっとやろうという意欲までもが高まってきます。

その一方で、人としての何かが失われていっているのではないかと、気になっているのも事実です。便利さ追及の裏で、意識しないうちに失われていると感じている何か、それは何なのでしょうか。物事の良し悪しの結果、実績を速く、正確に出すことにのみ仕事の中心を置くと、何が失われていくのか、出来上がりの優劣だけにこだわり、そして、それへの競争心を煽ることによって、何が人の中から消えていくのか、それこそ、本当は大事なものが見えなくなり、もっとおかしくなっていくような気がしています。

本当に大事なこと、何か忘れているのでは

自分を振り返るときに、そのような自分を感じませんでしょうか。

先月の27日(金)、鹿児島県総合教育センターの2022年度調査研究発表会が開催されました。鹿児島市の同センターを中心にオンラインで開かれています。(南日本新聞2023年2月6日朝刊) 

特別支援教育に関する分科会では、「障害のある児童生徒の学びの充実を図る」をテーマに代表が発表しています。出水養護学校(出水市)の白石邦彦教諭(50歳)は、端末を使った学習について報告。「興味・関心を高めることで集中し、意欲的に学習に取り組めた」と話しています。

また、南薩養護学校(南さつま市)の森洋子教諭(40歳)は、「ICTを活用したデジタル教材と、(実体験や実物に触れる)アナログ教材のよさを組み合わせ、より分かりやすい授業につなげたい」と語っています。

その後のグループ協議では、教員の端末活用力や教える意欲に差があることを問題視する意見が出されています。他の分科会では、授業デザインや高校での遠隔授業、児童生徒理解について研究成果を共有したということです。

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こうした研究発表会で、わたしには気になることがあります。それは、発表のための授業並びに資料等の作成になっていないかということです。つまり、単に発表をするために準備してきたのかな、みたいな印象を抱いてしまうことがあります。そして、立派な授業、資料作成があって、研究発表会は「大成功」ということになってしまいます。

とは言っても、報道による情報だけでは詳細が分かりませんので、そうそう安易に意見を申し上げるわけにはいかなかったのですが、でも、こうした印象を拭えない時があります。何かが抜けているように感じてしまうのです。

イエスの新しい掟は罪の源・欲望との対決

今日の福音書では、イエスは「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は~と命じられている。しかし、わたしは言っておく」という言い方を繰り返し用いて、あることに挑戦しています。それは、誰もが知っています。つまり、殺す者、姦通するもの、偽証するものが、社会的に処罰されることになっているということを。このことを前提にイエスは挑戦するのです。外見的に悪いことをしなければそれでいいのかと。それでいいのであれば、あまりにも安易な考え方であると、イエスは敢えて挑戦していくのです。

外に表現される動きが、衝動的に出てきたものだとはいっても、それまでに何度となく心の中で覚えては消え、消えてはまた目覚めてきた思い、ではなかったのかと。マタイが別の箇所で記しているとおりです。「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」と。その「口から出てくるもの」とは何かといえば「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す」のです。(マタイ15章11節と19~20節)

「しかし、わたしは言っておく」とイエスが言われるとき、外にあらわれる殺人、姦通、偽証よりも、このような行いをふき出すわたしたち一人ひとりの中にある醜い「欲望」に言及しているのです。この「欲望」と対決し、自分の内から取り去らないかぎり、いつしかまた表に噴出されてくるということです。

イエスが言う新しい掟は、この欲望と真正面から向かい合っていくことを、わたしたちに求めています。つまり、表をつくろうことではなく、心の中から清めていくことを求めているのです。だから、当時の人々にとってみれば、長年、当たり前のように過ごし、守ってきた生活のあり方に、あらためて挑戦していくよう求められていることになります。

「義」とは、神との関係を大事にする姿勢

このことはかなり高いレベルの変革です。わたしたちは目指さないといけないのでしょうが、とてもじゃないけど、無理なことだ、と思ってしまいます。努力しようと思う前に、萎えてしまいます。でもイエスは言われるのです。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と、天の国に入る絶対条件にしています。

ここで言われている「義」とは、神との関係を大事にする姿勢を指します。したがって、一つひとつの掟の中に込められた、神のわたしたちへの姿勢は何でしょうか。神の声を聞き取りたいですね。そして、その声に応じた行動をとるべく、先ずは、神の方を向きましょう。じっくりと聞いてみましょう。「じっくりと」聞いたことありますか。

自分に問います。「己の都合に合わせてしまっていないか」と。いつの間にかそうなっていることで満足しているんです。神の声に応じた行いをとっているんだと思い込んでしまっています。思い込みです。

教育するとは何ですかね。やはり、それは「人」ですよね。方法論だけでなく、子ども自身を相手にした温もりある教育とは、・・行動を起こす「わたし」という人間の、・・「義」を味わい続けつつ。実は、これが失われつつあることかもしれない。

 

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