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受難の主日:百人隊長や見張りの人たちは「本当に、この人は神の子だった」と言った

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受難の主日(A年)の聖書

受難の主日(A年)の聖書

受難の主日/枝の主日(A年)の福音=マタイ27・11~54

2023年4月2日

マタイによる主イエス・キリストの受難

C 〔そのとき、〕11 イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに尋問した。

A 「お前がユダヤ人の王なのか。」

C イエスは言われた。

十 「それは、あなたが言っていることです。」

C 12 祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。13 するとピラトは言った。

A 「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか。」

C 14 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。15 ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。16 そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。17ピラトは、人々が集まって来たときに言った。

A 「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」

C 18 人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。19 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。

A  「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」

C 20 しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。21 そこで、総督が言った。

A 「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか。」

C 人々は言った。

S 「バラバを。」

C 22 ピラトが言った。

A 「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか。」

C 皆は言った。

S 「十字架につけろ。」

C 23 ピラトは言った。

A 「いったいどんな悪事を働いたというのか。」

C 群衆はますます激しく叫び続けた。

S 「十字架につけろ。」

C 24 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。

A 「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」

C 25 民はこぞって答えた。

S 「その血の責任は、我々と子孫にある。」

C 26 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。27 それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。28 そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、29 茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、侮辱して言った。

A 「ユダヤ人の王、万歳。」

C 30 また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。31 このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。

32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。35  彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、36  こに座って見張りをしていた。37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。38 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40 言った。

A 「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」

C 41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。

A 42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」

C 44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。

十 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」

C これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、

A 「この人はエリヤを呼んでいる」

C と言う者もいた。48 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。49 ほかの人々は言った。

A 「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう。」

C 50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。

51 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。53 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、言った。

A 「本当に、この人は神の子だった。」

 聖書本文は 日本聖書協会の「新共同訳聖書」から引用しています。
日曜日の聖書は、日曜日の説教とともに毎週木曜日の夕方に更新されます。
カトリック教会では日曜日のことを主日(しゅじつ)と言います。

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2023年4月2日の説教

受難の主日:イエスはなぜ、苦しみの道を通らなければならなかったのか?
昔からの言い伝え、きまりを大事にするあまり、本物を見失っていくことはよくある日常的なことでしょうが、それも、その「もの」の重要度、必要度等によります。そこで、今一度はっきりと見つめてみましょう。

2020年4月5日の説教

受難の主日:今起こっているできごとの中で、イエスの受難を黙想したい
来る聖週間の典礼を通して、神のわたしたちへの関りをじっくりと見つめてみませんか。神にしていただいたあの事、この事、たくさんあるのではないでしょうか。その時の神からのメッセージは何だったのでしょうか。

2017年4月9日の説教

受難の主日:イエスの受難は人間の醜さの現れ。弟子の裏切り、権力者の横暴と保身、民衆の無節操など
裏切られ、傷つけられ、神からの支えも感じられないほどの闇の中で、その生涯を終えようとするイエスさま。イエスさまが通られた苦しみの道を、わたしたちは今一度しっかりと見つめなおすべきでしょう。「イエスさまの道」があったからこそ、今のわたしたちがあります。

2014年4月13日の説教

受難の主日:イエスの悲痛な叫びは弱い人間に共感する証
イエスさまが「・・・自分を無にして、人間と同じものになられました」という時、わたしたちに共感できる方であるということです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれます。

2011年4月17日の説教

主の受難:イエスは「神よ、神よ、どうしてわたしを見捨てられたのですか」と叫ばれた。
イエスさまは人から排斥され、しかも、心血をかけてきた愛弟子たちからも見放されていったのです。この事実をはっきりと認識できる今年の聖週間でありたいと思います。「わたし」の救いは、無実なイエスさまの苦しみの上に実現されたことを、改めて感謝することでしょう。

第一朗読と第二朗読を下の方に掲載しましたので、続けてお読みくだされば嬉しいです。実は、カトリック教会の主日(日曜日のこと)のミサでは第一朗読、第二朗読に続いて、三番目に上記の聖書(福音書)が朗読されます。

【注】第一朗読は復活節を除き、旧約聖書が朗読されます。因みに、復活節は新約聖書の使徒言行録が朗読されます。また、第二朗読では、新約聖書の中の使徒書と呼ばれる聖書が朗読されます。

第一朗読>>イザヤの預言

(イザヤ50・4~7)

主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
疲れた人を励ますように
言葉を呼び覚ましてくださる。
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聞き従うようにしてくださる。
主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ
げを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。

第二朗読>>使徒パウロのフィリピの教会への手紙

(フィリピ2・6~11)

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

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