2017年説教の年間テーマ「神のふところ」
【神のふところは限りなく大きい】

年間第25主日(A年)の説教=マタイ20・1~16

2017年9月24日

新聞で読んだ心が温まるパートさんの話

パート勤務のある女性の話です。
毎朝通勤で通る道の途中に小さな神社があります。ある朝、その神社の前に白いハンカチが落ちていました。翌朝、誰かに踏まれたのか、汚れてしまっていました。

その次の朝、汚れたハンカチは神社の柵にかけられていました。その翌日は大雨がありました。落とした人が早く気付けばいいのにと思って、次の日を迎えました。

その日の帰り道、柵に透明な袋がくくりつけてあります。中を見ると、きれいに洗濯され、たたまれた白いハンカチが入っていました。

どのような人でしょうか、家に持ち帰り、洗濯して元の場所に戻しておくなんて、なかなかできることではないでしょうと思ったそうです。

同時に、何日間も見ていたのに、ただ通り過ぎてしまっていた自分を恥じたそうです。そして、自分もそれができる人になりたいと思ったという話です。(讀賣新聞大阪本社2017年9月19日朝刊)

常識という固定観念に縛られていませんか?

わたしたちには、いつの間にか「常識」なる一定の規範が身についています。それは、育った環境に負うところが大です。主に、付き合っている人がどんな人なのかによって影響されることは大きいです。さらには地域性、自然環境にも影響を受けます。その結果、見受けられることの一つが、初めて会う人と付き合うことが苦手な人です。特に日本人は、どちらかといえば外国人には弱いです。現代では克服されつつあるかもしれませんが。

いずれにせよ、常識でつくり上げられた固定観念が生まれ、それに縛られてしまうということもあり得ます。これは結構な力を発揮し、いわゆる「頑固さ」となって、その人の代名詞になっていく場合もあります。新しい、いいアイディアが提案されたとしても、その固定観念に合致しないと否定してしまいます。こんなにして、自己成長するところなのに、それをみすみす逃してしまうことが頻繁になっていきます。

思い込みが別の新しい思い込みを生み出すこともある

また、「思いこみ」も、生きていくための大きな妨げになることがあります。特に、連続して苦しいことに出会うと、つい弱気になってしまい、愚痴が出ます。そして、人から離れ、自分に閉じこもり、安易さに走ってしまいます。挙句の果ては、欲望に汚れた自分を発見してしまうことになりかねません。そして、神に近づく資格などないと思い込んでしまうのです。一つの「思い込み」が別の新しい「思い込み」を生み出してしまいます。

今日の福音の話は、自分たちの「思い込み」が生み出す騒動を引き起こしています。別の角度からみますと、人間の常識を超えた神の態度とその心を見ることができます。

人間を愛し大切に思う神の心は、桁外れに大きい

つまり、人間を愛し、人間を大切に思う神の心が示されています。たとえ話の頂点、騒動の争点は、雇い主が、人間常識からすると、大きくはずれた賃金の払いかたをすることにあります。すなはち、夕方5時頃に仕事を始めた労働者にも、朝から働き続けた人と同じ「一日分の」賃金を支払ったのでした。雇い主にしてみれば、一日一デナリオンの約束で雇ったのであり、何も不正を働いているわけではないのです。

イエスさまがこのようなたとえ話をなさったのは、ファリサイ派の頑なさに対する挑戦でもあります。彼らは自分たちが思い描いている神の姿を持っていて、汚れた罪人は神に近づくことはできないと思い込んでいます。したがって、努力をしない人、弱い人、罪びとに対して、とても厳しい態度をとってしまうことになります。人に対する優しさ思いやりなどは消えてなくなっています。絶望の中にいる人々へ救いの手を差し伸べる神など、考えられないのです。

神は、みじめな人間への思いやりを惜しまない

しかし、神はみじめな人間への思いやりを惜しみません。みじめで悲しい生き方をしている人間の存在に関心を示し、見ぬ振りができない方なのです。罪を犯す人間の姿をあわれと感じる心がある神だからこそ、わたしたちは今日も生きていることができます。わたしたちが生きるために、できるだけのことをされるのです。

あのハンカチを洗濯してたたんでくれた人、それを見て恥じたパートの女性、いずれも、見て見ぬ振りができなかったのです。最後はしっかりと見て、常識を超えた行動ができるようになっていったのです。こうした人があふれると、この世も、もっと楽しく神に近づくことができます。

今日も、わたしたち一人ひとりにあわれみ深い神はささやきかけます。「あなたはみじめではありませんよ。さあ、今日も一歩前へ、・・」