2017年説教の年間テーマ「神のふところ」
【神のふところは限りなく大きい】

年間第21主日(A年)の説教=マタイ16・13~20

2017年8月27日

「夏休みもあと少し、ちょっとずつ元の生活にもどしなさいね」
「それは、夏休みに入る前の生活ってこと?」
「そうよ」
「もしかするとむりかも、ボクはもう夏休み前のボクじゃないんだ」
「ま~、背が一センチのびたの? どれどれ」

 讀賣新聞の4コマ漫画「コボちゃん」のコボちゃんとお母さんの会話です。(2017年8月21日朝刊)

小学生時代の夏休みを振り返ってみると・・・

長かった子どもたちの夏休み。残りも数日になりました。この漫画を読んで、自分の小学校時代を振り返ってみました。一つ言えることは、今の子どもたちみたいに、夏休みの宿題はたくさんなかったな、ということです。夏休みの友、絵日記、それに、「自由研究作品」くらいだったかなと思っています。そういえば、自由作品で金賞をもらったことを思い出しました。兄に尋ねながら挑戦した九州地図です。古新聞紙を使って、紙粘土風に仕上げることができたのです。楽しくできたなと今でも懐かしく思い出します。意気揚々と新学期を迎えたものでした。

近年は夏休み明けが問題になっている!らしい

ところが、近年は、この夏休み明けが問題になっていると聞きます。子どもたちが不安を抱えたまま登校拒否になるというのです。学校への不安を漏らす子どもたちが出てきて、どうしてそうなるのか、その理由が自分でもわからない子どもたちが多いのです。

人間と向き合わず、マニュアル通りの対処をしがちではないか?

子どもたちのことが事件とか問題になっていくとき、周りにいる大人のわたしたちはその問題処理だけに走り、子どもたち一人ひとりをしっかりと見ていないのではないでしょうか。「これこれしかじか」の問題が起きたときは、次のように処理に当たること、というマニュアルを実行するだけに終わっていないでしょうか。

どんな時も一生懸命生きている子どもたちがそこにいるのです。子どもたちは大人の振る舞いを見て大きくなり、そこから、生きる時のたくさんのことを会得していきます。良いも悪いも両方含めてです。

夏休みは親が「生きた教育」をする絶好の時

そこで、わたしたち親、大人は喜んで生きているのでしょうか。辛いこと苦しいことが多い中で、それでも、希望を失くさないでしっかりと前を向いているのでしょうか。常に一歩前に出るように歩み出しているのでしょうか。これらが、「生きた教育」といえる姿ではないかと思うのです。その姿を見せる格好の時、場が夏休みなのでは、・・。休み前と違っているのは、目に見える部分だけではなく、見えていないところにも注目していきたいものです。

人は、お付き合いしている人に感化されるものがあります。その最たる人は親であり、家族でしょう。もちろん尊敬している人からも、知らないうちに感化を受けているものがたくさんあります。物理的に近くなくても、心的には近くにいるからでしょう。

イエスは弟子たちとの問答で正体を明かした

イエスさまと弟子たちの関係も同じようなものだったようです。人間の世界では、他者のことを聞くのに、「お名前を教えてください」とは言いますが、「あなたは何者ですか」という言い方は、いきなりはしないですよね。でも、人々のイエスさまへの関心事は、イエスさまが「いったい何者なのか」ということでした。福音の中心話題は、まさしく「イエスさまはどなたでしょう」ということです。つまり、イエスさまの正体は何なのかです。福音書の中で徐々に明らかにされていきます。

初期のころは正気を失ったイエスさまと思われ、悪霊に取りつかれた人とか、または、宗教活動家だとか、預言者の一人だとか、言われています。民衆の皆も、少しずつイエスさまの本当の姿に近づいていきます。

一番弟子のペトロでさえ、サタン呼ばわりされた

12人の弟子たちは違いました。民衆とは異なった目が育っていたのです。当然でしょう。イエスさまの近くで、イエスさまのすること、しゃべること等、一挙手一投足を目の当たりにしていたからです。イエスさまの「正体」は、弟子たちにはわかっていたようです。そこで、ペトロは答えます。「生ける神の子キリストです」と。

この荘厳な信仰告白は真実です。イエスさまご自身が、ペトロの信仰告白を天のおん父の賜物であると宣言しているからです。とはいっても、ペトロはその直後、サタン呼ばわりされます。イエスさまを拒みます。それでも、それが人間です。

崇高と煩悩が入り混じった人間の中に信仰がある

今のわたしたちにとって大事なことは、「人そのもの」です。その人から出てくる教え、やさしさ、行いが人を感動させ、癒し、高められていくからです。問題点ばかりを探しあてたところで、その人の本物に近づくことは難しくなります。わたしたちは、崇高さと煩悩さを兼ね備えた存在です。こうした人間の中に、信仰があり、だから恵みに支えられているのです。

コボちゃんも一センチ伸びた身長ながら、「人」としては、はたして、どれだけ伸びたのでしょうか。