2017年説教の年間テーマ「神のふところ」
【神のふところは限りなく大きい】

年間第15主日(A年)の説教=マタイ13・1~23

2017年7月16日

「常識」にどれほどの力があるのでしょうか?

よく人は、「それは大人の常識でしょう」「日本人の常識でしょう」なんて言いますが、「人間の常識」も、どれほどの「常識」の力があるのでしょうか。つまり、物事、行動の判断基準になりうるだけの力があるのでしょうか、ということです。「それって、常識よ」と一蹴された体験をお持ちの方もいらっしゃるのではないでしょうか。

国、民族、地域によって習慣、しきたり等、微妙な違い、大きな違いがあり得ます。

国や民族、地域が変われば、「常識」も変わる

かなり前の話です。わたしは仕事の都合でタイを訪問したことがありました。同じアジアの国であったこともあり、違和感を覚えることなく会話ができたように思います。そして、お祈りとミーティングに参加するために、ある教会を訪問しました。そこには、ご主人が、海外の会社に出向で赴任している、日本からのご家族が集まっていました。中には、乳呑児の赤ちゃんを抱いているお母さんもいらっしゃいます。ほとんどが日本人の母子の集まりです。飛び交う言葉はもちろん日本語。話がはずむこと。水を得た魚のように元気はつらつ、いい笑顔です。就学前の子供たちとて同じこと。はしゃいで飛び回って、・・。

「日本人の常識」が海外では通用しない

ひとしきり解放感を味わった後の集い。先の賑やかさとは裏腹に、深刻な、やるせない寂しさの雰囲気に、急に落ち込んでしまいました。「育児ノイローゼ」「他人(人間)恐怖症」「社内でのいじめ」等、お一人お一人にとって、それぞれに、とてつもない悩みを抱えていらっしゃるのでした。国民性の違い、生活習慣の変化などからくるストレスがいかに大きいかがよくわかります。「日本人の常識」が、海外では通用しないのです。

タイでは子どもの頭をなでてはいけない

その一つに、子どもたちに会いますと、日本人は子どもの頭をなでたりします。子どものかわいさあまりに自ずと手が出てしまう、日本的仕草です。タイで同じようなことをしますと注意されました。頭をなでてはいけないんだそうです。わたしの記憶違いでなければ、「頭は神さまの座」、神さまがいらっしゃるところだそうで、人の手で汚してはいけないということでした。このようなことは、現地に行ってみないとわからないことですね。それだけに、「常識」の違いから学ぶこともあります。

ところで、今の日本は、違った意味で「常識的」に考えてもおかしな、通用しない出来事が連続しているような気がしてなりません。ある学園を巡る問題で、国会を舞台に展開されています。お互いのやりとりを拝見して思うことです。子どもたち同士であれば、○○をした、しなかったの問答はあったとしても、結論は明らかになっているような気がします。第三者がそこに入るからです。

日本では常識的におかしな出来事が連続

国会でのやりとりは、それを見ている子どもたちにとっていい教育現場であるとは思えません。いつも考えていることですが、教育は何も学校だけが現場ではなく、生きている現場はすべて教育本番の舞台であろうと思うからです。特に親御さん、人生の先輩たちが見せる生きざまが、子どもたちの生きる財産となって蓄積されていきます。体験が知識となり、知識が知恵となってさらなる生きざまに影響を与えていきます。

今日の種まく人のたとえ話にも、あれっ、と不思議に思う人もあるかと。その当時のパレスティナでは、畑を耕して種をまくのではなく、そのままで種を先にまくのです。わたしたちの農家の人の常識からしますと無駄で、もったいないように思われます。この違いを利用してイエスさまは大事な教えを人々に伝えます。

優れたものでも生かすことができなければ・・・

どんなに高貴なもの、優れたものを見せられ、いただいたとしても、そのものの使い道、生かし方を知らないとすれば、宝の持ち腐れになってしまいます。種まきの話も同じです。種そのものは素晴らしい生命力を持っています。でも、まかれた場所がそれに見合う土地でなければ実らないのです。

人の場合も同じことが言えます。尊敬する人のことばと行いは、すんなりと受け入れることができます。そのような下地がない時には、その言動は実らないのです。実りがなくても、イエスさまは語り続けます。できることならば、振り向いて受けてほしいという願いを込めて、・・。イエスさまは今日も語り続けていらっしゃいます。

常識を超えたところに、わたしたちの信仰は育ちます。