2017年説教の年間テーマ「神のふところ」
【神のふところは限りなく大きい】

年間第12主日(A年)の説教=マタイ10・26~33

2017年6月25日

毎日の新聞、テレビ等の報道を見ますと、よくぞいろいろな事件事故、行事等が、次から次へと起こり、計画されているなと、ふと思ってしまいます。人がこれだけいて、動いていれば何かが起こるのは当りまえでしょうね。

日常の出来事に新しい何かを発見する努力を

しかし、この「当りまえ」のことを「当りまえだから」と、何も感じなくなりますと、新しい何かを発見する機会を逸してしまいます。そして、活気を失っていきます。さらに、肉体的にも精神的にも老け込んでいってしまいます。その結果「お若いのに、・・」と人のあわれみを買ってしまいそうになります。残念なことに、それまでだとそんなことはなかったはずなのに、自分の今の仕事に適した「自分」を見失っていきます。近頃は、そのような人が多くなったような気がしますが、・・。

保育所の3割で心のケアが必要な保育士が存在

「保育所3割で心の不調職員」という記事を見つけました。(讀賣新聞大阪本社2017年6月20日朝刊)
待機児童解消のため保育士の確保が課題になっていることを受けて、慈恵医科大(東京)が調査をした結果が掲載されています。約3割の保育所に心の不調でケアが必要な保育士がいることが分かったとしています。その上、回答施設の6割はサポート体制がなく、離職につながる精神的負担への対応が不十分な実態があるということです。

慈恵医科大調査で回答施設の6割が「サポート体制なし」

調査は今年2~3月、無作為抽出した全国の保育所約1万施設に依頼し、2672施設からの回答がありました。このうち719施設(27%)が、「精神的・心理的負担のサポートが必要と感じたり、実際に治療を受けている保育士がいる」と回答しています。こうした保育士の数を当たってみると、それぞれの施設に1人いると回答した施設が一番多く、7割であったといいます。「5人以上いる」と回答した施設もあり、8施設あったようです。

「待機児童解消」に懸命だが、新たな課題が浮上している

「待機児童解消」という課題が解決したとしても、人に知られないところでは、別の課題が新たに発生していることを忘れてはいけないのではないでしょうか。しかも、その問題の中身は深刻です。

世の親御さんに働く機会を提供できたとしても、その分、保護者のやるべき業務を背負う別の「働き人」が必要になるということです。保育士だって「働く人」です。彼らにも同じく家庭があり、お子さんを抱えている人もいます。

待機児童解消には子育て家庭に「育児支援金」を

無責任な言い方、考え方かもしれませんが、「待機児童解消」の近道は、親御さん自身が子育てに関わることではないでしょうか。つまり、子育て家庭に「育児支援金」を補助してはどうかと思うんです。新たに施設を建て、維持運営するだけの財力があるのであれば。子育ては、いつも考え、感じていることですが、子どもが「安心できる」環境を、子どもに与えてあげることに始まるからです。理屈抜きで、親御さんですと安心できるし、親御さん自身も喜びを感じられるのではないでしょうか、そして、共に生活することを通して、親の「心の財産」を子が受け継いでいきます。そう願い、感じています。

子どもに限らず大人だって、恐れを感じる環境よりも安心できる状況下の方が、何事に関してもうまく事が運びます。一人の人間としても、のびのびと行動でき、やっていることに自信と確信を持てます。

子どもに限らず大人も安心できる状況が必要だ

しかし、現実は、皆が体験しているように、必ずしも順風満帆のときばかりではありません。だからこそ、安心を保証してくれる何かを求めます。イエスさまは、こうした弟子たちの実態をよく知りつつおっしゃいます。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現れないものはなく、隠されているもので知られないものはない」と。

弟子たちの進む宣教活動の道のりは、決して平坦なものではないことを、イエスさまはよくご存知でした。平坦さを邪魔しているのは何かといえば、周りにいて、自分たちとも仲良く生きている人々です。そうなる一つの理由は、生きる価値観の違いです。彼らが宣教活動する中で、人々の生活スタイルに違った生活の評価を与えてしまい、その和を揺さぶってしまうことになってしまったのです。そうなると、その集落から追い出され、排斥され、相手にされなくなってしまいます。現代でも同じようなことがあり得ます。

神の慈しみを確認することで恐れに立ち向かおう

弟子たちは、孤独感、疎外感に襲われ、耐えられなくなってきます。仕事放棄、誘いの言葉に負け危機に直面してしまうことにもなります。

そこで、イエスさまは「恐れるな」と言われます。神の逞しさ、力強さ、慈しみの中にある自分たちを思いなさい、と言われます。神の愛に守られていること、固い信仰に固められていく自分を感じてみたいです。

「当りまえ」が「当りまえでなくなった」時ではもう遅いんです。当りまえの日常の中で感じたいですね。

「からだも魂もゲヘンナで滅ぼす力のあるかたを恐れよ」