2017年説教の年間テーマ「神のふところ」

【神のふところは限りなく大きい】

復活節第5主日(A年)の説教=ヨハネ14・1~12

2017年5月14日

目標を達成した人には、「こだわり」を感じる

ある種の達成感を覚える、己の目標を成し遂げてしまった人に「こだわり」を感じる時があります。もちろんいい意味なんですが。頑固にあることに徹したからこそ、達成できた自分がある、というようなことです。みなさんの身近にもそのような方がおられるのではないでしょうか。このような人って、何か魅力を感じますよね。そのような雰囲気が自ずと発散されているのではないでしょうか。結果的に、なにか大きいことをやり遂げた人に共通する「人間味」とでもいえるのでしょうか。

このような人は、多分、後ろ向きの考えは決してなさらないのではないかと思うのですが、・・。例えば「もし、○○やって失敗したらどうしよう」「△△になってしまうのが嫌なんだよな」などのように、窮地に自分を追いやる考え方、感じ方です。

影響力のある人はとくに、前向きに誘導してもらいたい

よく他者を批判する時、その人が失敗したこと、足りないこと、間違ってしまったこと、などを列挙してしまいます。いくら指摘したところで、事態が好転することはないのです。単なる「憂さ晴らし」で終わってしまいます。それも、何とも後味の悪いものが残ってしまいます。完璧な人はいませんが、それでも、この命を一生懸命生き抜こうとして、皆、前を向いているのです。できることならば、マイナス方向に誘導してはいけないのですね。

特に、多くの方へ影響力を持つ方々は、心しておくべきことのような気がします。物事には、その成果を出すために、時間をかけるべきものと、一気に片付けるべきもの、否、そうしなければいけないものとがあるのではないでしょうか。

「憲法改正」は侵略を前提に論じるべきでない

先日から報道の中心的話題の一つになっているのが「憲法改正」です。憲法第9条に関して、「自衛隊の存在を記述するということを議論してもらいたい」との考えが総理から出されたということです。この発言の背景にある思いは「北朝鮮情勢が緊迫し、安全保障環境が一層厳しくなっている中、『違憲かもしれないが、何かあれば命を張ってくれ』というのはあまりにも無責任」という考えがあるということのようです。(讀賣新聞大阪本社、2017年5月3日朝刊)

一日本人として以前から思っていることがあります。法律、政治に関してはよくわかりませんが、「他国から侵略されたらどうする」というテーマが何かにつけて問題視されていました。しかし、こういう考え方をする前に、「どうして、侵略のない、平和な地球環境を創成する努力にエネルギーを使わないのだろうか。

侵略のない平和な環境創成への努力こそ必要

日本が、戦後、戦争を放棄した国として、皆に呼びかけをしないのだろうか」ということです。仮に、そうしたとしても、その成果が出るまでには、かなりの時間が必要でしょう。でも、日本は十分に世界に向かって発信できる立場にあると思います。それは理想論だよ、いや、空想だよと言われそうですが、・・。でも、皆が心から望んでいることであることは間違いないのでしょう。

イエスさまの弟子たちも理想を抱いていました。しかしながら、それはイエスさまに“おんぶにだっこ”だったのです。そのイエスさまがいなくなるのです。

イエスが生涯の目的完成へ向かう時の告別説教

今日の福音は最後の別れを告げる「最後の晩餐」の席です。人間としての常識からみますと、挫折、敗北としか映らない十字架刑に向かう直前です。弟子たちにとっては、そのような印象を抱かざるを得ない時でした。しかし、イエスさまにとっては、今までの説教、ことば、行動等が、イエスさまの生涯の目的の完成へと向かう時であったのです。

それまでのイエスさまの力強い説教、人々に限りない安らぎと癒しを与え続けた温かい心のこもった言葉、その人となり等、すべてを見て、イエスさまに完璧に頼り切っていたのです。それだけにそのショックも大きいと言わざるを得ません。

イエスの行動は非常識ではなく、常識を超えたもの

実に、弟子たちにとって、イエスさまに対する信仰の試練の時でした。しかし、弟子たちはみな、この試練を乗り越えることなく、イエスさまを見捨てて逃げてしまうのです。それでも、イエスさまは「心を騒がせてはならない。・・わたしを信じなさい」と言って、彼らの信仰が本物の信仰になるように働きかけ、励ますのです。つまり、イエスさまのなさる行動は、「非常識」なのではなく「常識を超えた」ものであることに気付きなさいという招きなのです。現代にもあり得ます。

そして、この招きに見事応えることができたのです。それも、復活と聖霊降臨という恵みを通して、・・。そして、大きな影響を与えることのできる存在者となっていったのでした。そこに、今のわたしたちも招かれています。