受難の主日/枝の主日(A年)の説教=マタイ27・11~66

2017年4月9日

2017年説教の年間テーマ「神のふところ」
神のふところは限りなく大きい

裁判所は原発の安全性を認めたものの・・・

「高浜原発 再稼働へ」の見出しで、大阪高裁が「差し止め仮処分」の取り消しを認めた、との報道がありました(2017年3月29日読売新聞大阪本社版朝刊)。裁判長は、原子力規制委員会が策定した新規制基準について「最新の科学的、技術的知見に基づいている」とし、高浜原発の3、4号機が新規制基準に適合しているとして安全性を認めたということです。

報道によりますと、大阪高裁決定のポイントが掲載されていました。その中でいわれていることは、「新規制基準は、・・不合理ではない。新規制基準に基づく安全審査に合格しており、・・耐震性や津波対策も不合理ではない。・・3、4号機の安全性が欠けているとはいえず、・・」ということのようです。

『絶対に安全と判断した』冬山訓練では悲惨な事故

一方で、「『絶対に安全と判断した』。登山歴の豊富な教諭3人で訓練実施を決めたと明かした」と、これまた、悲惨な事故が発生しました(同上紙3月30日朝刊)。栃木県那須町の雪崩事故です。結果としては、教諭一人を含む8名の犠牲者(男子高校生)が出てしまいました。自然が相手では、経験がいくら豊富であっても、1+1=2という答えが出るでしょうか。つまり、「絶対」ということはあり得ないということです。

経験が豊富であれば、自然の恐さをも熟知されていたのではないかと思います。しかし、「訓練」という目標が勝ってしまったのでしょうか。助かった生徒の中には、訓練の中止という選択肢もあったのではないかと考えた人もいたといいます。事故が発生してからではどうしようもないですが、・・。

いずれの出来事にしましても、人間にとってはどうしようもない、乗り越えることのできない壁があります。それというのは、一つは人間の能力の限界であり、一つは自然界のとてつもない大きな力です。それらが立ちはだかります。

最新の知恵と科学を駆使しても、絶対はあり得ない

人間が、細心の注意を払い、最新の知恵と科学を駆使して対応しても、また、想定できるもろもろのケースをクリアーできたとしても、所詮、人間が考えることです。「絶対」安全、「絶対」確実ということはあり得ないのではないでしょうか。あの東日本大震災は忘れることはできません。想定外のことが起こったということだけではないでしょう。

自然の脅威は人知を、人間の能力をはるかに超える「パワー」であるということです。この事故を契機に、新たな苦しみ、心身の負債を抱え込んでしまうことが現実にあっています。悲しいかな、負の連鎖が途絶えることはありません。これまた、予測できる重荷です。しかし、現に、心身が疲労困憊してしまいます。

「負」には自己が招く負もあれば、結果として他者に背負わされる負もあります。

聖週間の典礼はイエスの受難、死、復活に集中する

今日から聖週間に入ります。イエスさまの生涯の中で、一番過酷で、悲惨な道のりが始まります。聖週間の典礼では、イエスさまの受難、死、復活にすべてが集中します。聖書朗読もイエスさまの苦しみの道をたどる箇所になり、今に生きるわたしたちに対して、イエスさまの受難を黙想するように招きます。

イエスの受難は人間から課せられた負であり、御父から託された業

イエスさまの受難は、わたしたち人間から課せられた負であり、おん父から託された「人間を救う」業でありました。したがって、聖週間の典礼のみことばは、特に、マタイにおける受難の話は、イエスさまの苦しみだけに焦点を当てることによって、人間の悪意と醜さをクローズアップさせています。

弟子たち、権力者、民衆もみなイエスの受難に追い打ちをかけた

ユダによるイエスさまへの裏切り、ペトロの、皆の前で誓いを立ててまでのイエスさまの拒否。それまで世話になった尊敬すべき師を否定する人間の弱さと頼りなさが紹介されています。さらに、人民の騒動を回避し、自己安寧を追求するあまり、無力なものを無視し、犠牲にすることをいとわないピラト、権力者に操られる無節操な民衆たちの汚さが、イエスさまの受難に追い打ちをかけます。

イエスが通った苦しみの道を、しっかり見つめなおしたい

裏切られ、傷つけられ、神からの支えも感じられないほどの闇の中で、その生涯を終えようとするイエスさま。イエスさまが通られた苦しみの道を、わたしたちは今一度しっかりと見つめなおすべきでしょう。その道は、「わたし」の救いのために通らなければならなかった道であったことを、「わたし」が認識すべきなのでしょう。「イエスさまの道」があったからこそ、今のわたしたちがあります。このことを日常に感じ、いただいている機会を生かしているでしょうか。自問してみたいです。

聖週間の典礼を通して、イエスさまのわたしたちへの愛のしるし、十字架の刻印が押されているこの「わたし」に目覚めましょう。