王であるキリスト(C年)の説教=ルカ23・35~43

2016年11月20日

神のぬくもりわたしの小学生のころ、教会では毎日、学年ごとに分かれて、現在で言う「教会学校」がありました。子どもの数が多いこともあって、また、今みたいに部活がない時代です、信者の子どもたちはしっかりと教会に来て“要理の学習”をしていました。その中で、毎週土曜日はゆるしの秘跡を受けなければいけませんでした。翌日のミサの準備だったのです。

その時代に、教会学校で「天国泥棒」の話を聞いた覚えがあります。のちに思うに、今日の福音の箇所がそれにあたるお話です。

神の神たるゆえんがここにあります。「いつくしみの聖年」が終わります。
「いつくしみは正義に反するものではなく、罪びとに対する神の振る舞いです」と教皇フランシスコは言われます。(「イエス・キリスト、父のいつくしみの顔」21番)

「振る舞い」ですから、神のいつもの状態を表しています。「天国泥棒」の話は、逆に神の通常の状態である素晴らしさを、大きさを、寛大さを、恵み深さを讃えている話であるといえます。

別の見方からしますと、イエスさまが生涯をかけて成し遂げようとしていたことの実りが、あらわれた話でもあります。イエスさまが実現しよとされたこととは、それは、罪びととの出会いであり、その罪びとを取り戻すことでした。その最期を終えるにあたり、実にふさわしい情景です。

罪の状態から抜けきれなくて生涯を終えようとしている盗賊たちと、罪を一度も犯すことのなかったイエスさまとの出会い。正反対の生き方をしてきた双方の出会い。

敢えて付け加えるならば、イエスさまの誕生時から、イエスさまを拒む人々と、受け入れる人々がいたように、最後の瞬間にもその両者がいます。この情景の中で言えることは、今のわたしたちに大きな望みを抱かせてくれます。

それは、自分の力ではどうしようもなくなった人ができることが一つだけあるとルカは訴えているのです。一人の男が十字架の上で、「イエスよ、あなたがみ国にはいられるとき、わたしを思い出してください」というへりくだりの姿です。

これに対して、イエスさまは償いの業を男に求めません。だからこそ「天国泥棒」と呼ばれてしまったのでしょうか。イエスさまにとって救いの業は「ゆるし」がその中身です。

「いつくしみの年」は終わりますが、神のいつくしみはいつまでも続きます。わたしたちの中の希望も、いつまでも続かせましょう。イエスさまの救いの輪の中に取り込んでもらえるように、・・。