年間第32主日(C年)の説教=ルカ20・27~38

2016年11月6日

神のぬくもりある先輩が言いました。「俺は意志が弱いからタバコをやめた」と。すかさず、「それは逆でしょう。強いからやめたんでしょう」と周りの人が言います。

この会話の中に込められているものは、「煙草を吸う」ということはいけないことだという空気を感じませんか。確かに、体にとってはよくない病気を引き起こす原因になることは必至です。近年の「禁煙ブーム」は、健康を大事にする人からみますと、賞賛すべきことです。しかし、実際タバコを吸っている人でも、「よくないよな」と思って吸っている人はたくさんいるはずです。そのような人がタバコを止めようとするときは、かなりの自己葛藤があるように思います。

本物の健康はどこにあるのかを知っているからこそ、現状がそうでない状況に長年いる自分に、はまりこんでしまうのです。つまり、自己の正常化を保っているのが「喫煙」であるかのような錯覚に陥ってしまっているのです。喫煙者からは、「何を言ってるんだ」と怒られそうですが、・・。

わたしたちが生きていることを意識し、確認できることって何かあるでしょうか。しつこいようですが、喫煙者にとってタバコがおいしい時は健康であるといいます。健全に生きている自分を意識できます。お肌の健康、胃腸の健康等、それぞれに自己流であっても、確認するすべがあります。

健康度チェックはできても、「生きていること」自体は、どこでチェックできるでしょう。死ぬかもしれない危険な目にあったとき、何を思うでしょうか。「死にたくない」と思うことが、「生きている」自分を認識できる証拠になるかもしれません・・が。

逆に言いますと、「死ぬ」ことを前提にしているからこそ、「生きている」ことを意識するのでしょうね。ならば、「わたし」という存在者は、一時的で終わるのでしょうか。いや、そうでないからこそ「生きている」ということの意味があるのでしょう。そのことの実感を抱きたいのです。

あくせくと苦労を積み重ねることも、実は、何かと葛藤していることの生きざまです。何かといえば、「復活の信仰」です。今日の第一朗読の七人の兄弟は、厳しい弾圧の中で、妥協のない姿を見せています。内面の葛藤が当然あったでしょう。しかし、復活の希望に満たされた彼らは、恐怖と拷問を乗り越えたのです。「生きている」ことの根拠、証拠をこの世を超えた「復活の信仰」に見出したのでした。

わたしたちが同じ境遇に立たされたとしたら、・・。
確かに、目先の幸せ、豊かさに惹かれ、本物を見失う弱さがあります。しかし、その環境の中で、少しずつではあっても、「神に似せて創られた」存在者として、前進できる恵みをもいただいています。大事なことは、「朽ちない」ものを選択できる訓練を重ねることでしょう・・・か。