年間第24主日(C年)の説教=ルカ15.1~32

2016年9月11日

神のぬくもり人間がすることに、いわゆる、完璧はありません。だからこそ、一人ひとりの能力は違うし、違うからこそ、互いに助け合って生きるようになっているのです。そもそも人間の命は、自分の外に開かれているのであって、自分のためだけではないのです。

ところが、人間はその違いを無視して、おしなべて皆を同じようにしようとします。文字通りの「律法主義」に閉じ込めようとします。法律は社会秩序を維持し、発展させるために大事なものです。しかし、法に支配されては本末転倒でしょう。それでも、まかり通ってしまう時があるのです。

それがどうしてなのかは別として、今日の福音書では、そのために「落ちこぼれ」という人々が出現する危険性が指摘されています。

日頃から、イエスさまのもとには取税人や「罪びと」がやってきます。当時の指導者グループであったファリサイ派や律法学者たちにとっては、イエスさまのこのような姿は理解に苦しむことだったのです。

彼らにとって、神とは何よりも聖なる存在者でした。それ故に、神は、わたしたち人間が聖であることを望まれます。実際にそうであろうと思います。間違ってはいないことですが、この考えにしたがって、彼らなりの「聖となるための歩みと形」を決めてしまったのです。そして、その道を歩めない者はみな、神から見捨てられた者とみなされてしまったのでした。

こうして神の前に「落ちこぼれ」る者が生まれてしまうのです。人間の世界では、ある程度の能力がないと見向きもされないし、相手にされません。しかし、神の世界でそのようなことがあるのでしょうか。イエスさまの時代、「聖なる者」とされる人々は、ファリサイ派や律法学者たちのお目に適った者、ということになりはしないか、ということになります。神の世界の話ではありません。

今日の福音に登場する話、迷った子羊、銀貨を失った婦人、放蕩息子の話に共通することといえば、「いつくしみの神」が描かれていることです。失ったものを捜しあてた時の喜びは何とも言えない安堵感を与えてくれます。イエスさまもそのような温かい心でわたしたちに迫ってこられるのです。

これが神のありかたであり、なさりかたなのです。神の前に「落伍者」がいるはずもないのです。むしろ、イエスさまのなさり方に馴染もうとしないファリザイ派の人びとこそ、自分たちのやり方に気付き、神が心痛めていることに気付いてほしいものです。はたして、今のわたしたちは、・・?!