年間第23主日(C年)の説教=ルカ14.25~33

2016年9月4日 

神のぬくもりわたしたちの日常は、その意味がしっかりとは分かっていないマナーを、ごく自然にこなしながら生活していることが多いです。例えば、洋服の「前合わせ」は男女で違います。このことは知ってはいますが、どうしてそうなの、となると答えが出てこないということはないでしょうか。

また、将棋がお好きな人はおわかりと思いますが、王将と金将以外の駒は、敵陣に進入させるとき駒を裏返して金将と同じ働きをする駒にできます。「歩」以外の駒は「金」と書かれているのに、「歩」の裏は「と」に似た字が書かれています。「と」ではないのだそうです。

いずれにせよ、その理由がわからなくても、生きていく上に何ら支障はありません。知らないままに過ごしていくことができます。多くの人がこうした状況下で生活しています。

ところが、世の中には、いわば、「ものしり」「生きた百科事典」と称される人々がいるのも事実です。「知っている」こと自体はいいことですが、あまりにもそのことを人前で得意げにちらつかせますと、意地悪したくなるのが普通の人間の思うことかなと感じております。はじめのうちは興味本位でも、そのうちに「意地悪すること」が目的になってしまって、利己的な世界に閉じこもってしまいます。

今日の福音は、民衆のあまりにも利己的な発想に対して、イエスさまがちょっと意地悪っぽく、しかし、強い表現を使ってお話しなさったのではないかと思われます。

イエスさまの周りにいた人々はどのような人たちだったでしょうか。時々はその招待を受けたこともあるファリサイ派の人びと、好奇心と野次馬根性も加わった群衆。中には、イエスさまの評判が高まれば高まるほど、人々の心には一度は会ってみたい、見てみたいという望みがおこってくるのでした。当然と言えば当然ですよね。

その中には、ローマからの解放運動の指揮官としての任を担って欲しいと、一般に言う、イエスさまを担ぎ上げる人々もいたのです。むしろ、それを理由にイエスさまに近づいてきたと言えなくもありません。

いろいろな状況を考えながら、イエスさまは群衆の甘い夢を打ち砕こうと思われたのではないでしょうか。人々のイエスさまに寄せられている現世的な利益と安寧を切り崩そうとされたのでしょう。イエスさまの道はそうではなかったのです。事実、最後に十字架のもとにとどまることのできた者は、どれだけいたでしょう。

今日のイエスさまの弟子たるもののきびしい条件は、こうした背景の中で語られたものです。わたしたちも現世的な価値観にとらわれ、目先の幸せや利益に目がくらむことはよくあります。しかし、いつもわたしたちの周りで輝きを放っている「確かな」価値を見失うことがありませんように。