年間第21主日(C年)の説教=ルカ13.22~30

2016年8月21日

神のぬくもり人間の育ちは、どこの国の人でも、同じ発達段階を経て大きくなっていくのではないでしょうか。特に赤ちゃんの時代は、表面に見えるところでいいますと、「はいはい」をするようになってきますと、赤ちゃんは好んで狭いところに入りませんか。2~3歳くらいになると、しっかりと自分の好みの場所を狭いところに作るようです。

幼稚園に初めて働き始めたころ、「どうして子どもたちはこんなに狭いところに集まるのだろう」と不思議に思ったものでした。広いところがあるのに、狭いところに群がりたがるというか、何も苦にしないで普通に集まるのです。

それに比して、大人になると狭苦しさを感じて、開放されたいと思うようになります。狭いところにわざわざ行かないでしょう。よほどの理由がないかぎり、・・。この違いはなんなのでしょうかね。

今日の福音に「狭い戸口からはいるように努めなさい」とあります。また、他の箇所では、「心を入れ替えて幼子のようにならなければ、決して天の国には入れない。だから、幼子のように自らへりくだる者が天の国で一番偉いのである」(マタイ18章3~4節)とイエスさまは言われます。「狭い戸口」と「幼子」はつながっているような気がしますが、・・。

大人と子どもを比べることはできないかもしれませんが、少なくとも能力の点では。しかし、イエスさまは「救い」に関しては、例えて子どもを登場させます。それは、イエスさまに出会うための条件を自ら備えているからだと言えます。

子どもは未熟です。だから自分を任せます。したがって、他者からの手助けを拒みません。さらに、そこにいることで人々に元気とやすらぎを与えてくれます。そうはいっても、子ども自身、このことを意識しているわけではありません。子どもは無垢な状態で生きています。駆け引きがなくて、だから、いいのでしょう。

大人はと言いますと、しっかりと意識しているがゆえに、自身を凝視し、神の恩恵の中で謙虚に、日常生活の現場で子どもの備えている「わたし」の特典を、発揮していくのです。他者とのつながりの中でしか、イエスさまとのつながりは育っていかないからです。「隣人愛の実践」はここに意味があります。何故って、イエスさまとのつながりをもっと密にしていくことに等しいからです。(マタイ25章32節以下)

そして、狭い戸口から難なく入れるように、わたしたちが育っていきます。そういう人がたくさん増えていくことがわたしたちの目標でありたいです。然り。