年間第20主日(C年)の説教=ルカ12.49~53

2016年8月14日

神のぬくもり小教区の教会にお世話になっていますと、信徒、未信徒を問わずよく言われたことがあります。「どう祈ればいいのかわからないんですよね」と。わたしにとりましても、「祈り」とはどのようにあるのがいいのか、これは、生きている限り、自問自答していかなければいけないことかなと思っています。

その中で、わたしが思っていることがあります。どうしても気持ちが散漫としてしまう時は、聖書の詩編の箇所を開けるのです。普段朗読する時より、ゆっくりテンポで、ことばを味わいつつ、先に進みます。好きな詩編がありますと助かりますね。その詩編を読んでいるうちに落ち着いてきます。

聖書の中でも、150編ある詩編は、人間が神に語りかける「神の民の祈り、歌」であるからこそ、わたしには親しみを覚えます。中でも、嘆願の詩編は、その言葉を自分の今の生活の環境に置き換えて発することができます。真に迫った祈りとなっていきます。「嘆願の詩編」は、民の、神への嘆き節だからです。わたしも日常の中で、神への「嘆き方」を覚えていきます。神はそれを待っていらっしゃるのではないでしょうか。

今日の福音では、イエスさまの民衆への「嘆き節」を聴いているような気がします。その実、今のわたしたちにもおっしゃっていることでしょう。

イエスさまは、ガリラヤを皮切りに、方々の村を巡り、主都エルサレムにまで足を運び宣教活動を展開してきました。にもかかわらず、民衆の反応はイエスさまにとって芳しいものではありませんでした。

確かにイエスさまの人となりにひかれ、弟子としてイエスさまについてきた人はいました。しかし、彼らのイエスさま理解は、イエスさまが望むようなものではなかったのです。つまり、どこか地上的過ぎて恣意的なにおいがするものでした。当然のことながら、イエスさまを誤解してしまったのです。その結果、即物的な救い、安寧を期待してしまい、誰ひとりイエスさまとともに燃えあがる人が出なかったのです。

そこでイエスさまの嘆き節が出ます。「わたしの苦労はどれほど深かろう」と。誤解から生じるイエスさまへの無視がイエスさまを苦しめます。

わたしたちは洗礼を受け、イエスさまの仲間として今を歩んでいます。完全ではなくても、精一杯イエスさまに安堵感を持っていただけるように、イエスさま包囲網、仲間の輪を広げてまいりましょう。イエスさまの「嘆き節」をなくすために、・・。