年間第19主日(C年)の説教=ルカ12.32~48

2016年8月7日   

神のぬくもり病院で診察を待つ間の時間は、実に長く感じます。愚痴るわけではありませんが、診察時間はものの数分で終わります。いずこも同じでしょうが、それだけ患者さんが多いということでもありますよね。

その待つ時間を利用してある本を読んでいました。「日本の三大がっかり名所」の話が載っていました。それによりますと、「がっかり名所、昔と今」みたいな書き方がなされていました。かつての「がっかり名所」は、札幌の時計台、高知市の播磨屋橋、そして、沖縄の守礼門だそうです。それが今や、長崎のオランダ坂と思案橋、仁徳天皇陵の三つが紹介されています。最後に付け加えられているのは、「ただ、『やっぱりがっかりした』と確認するために訪れる人も少なくないようで、もはや『がっかり』自体が付加価値」とあります(日本の「三大」なんでも事典)。なんとも、とんでもない紹介の仕方です。

名指しで「がっかり名所」と指摘されたところは、それこそ「がっかり」でしょう。これは、人間的な、しかも個人的な思いが強調された指摘かなと思っています。そこまでするのは、著者の何か強いメッセージが込められているからでしょうか。

状況は違うかもしれませんが、イエスさまも、とんでもないたとえを敢えて出して、弟子たちにメッセージを伝えます。「主人が給仕してくれる」なんてことは、当時としては考えられないことです。

イエスさまを取り囲む弟子たちのグループは「小さな群れ」だったのです。この小さな群れ以外に、大きな群れがいくつかありました。この小さな群れが、大きな強い圧力に押しつぶされそうになったり、その他、さまざまな悩みに直面することは必至です。

そこでイエスさまは、「神がすべてである」と言われるのです。このことを伝えんがために、あり得もしない「主人が給仕してくれる」なんていうことを引き合いに出して、どんなことになっても弟子たちに心配る神がいることを忘れるな、と強調なさいます。これが神のみ心なのだということを通して、弟子たちに安心と前に進む勇気を持つように励まされます。神に希望をおき、小さいながらも、神にだけ向かう弟子たちでありなさいと駆り立てます。

わたしたちの日常性の中で、いつ、どのようなことで神の関与を感じているでしょうか。神がすべてであるという実感をどのように表現しているのでしょう。それができた時に、確実にイエスさまの、福音の証人となることができるのでしょう。

小さな「群れ」だからこそ、一人ひとりが感じることを積み上げていきたいですね。神の存在が付加価値になっていると言えるように。そして、生きられるように。