年間第12主日(C年)の説教=ルカ9.18~24

2016年6月19日   

神のぬくもり毎日の新聞、テレビ報道に、事件事故のニュースがない日はありません。当然のことながら、人間が生きている限り、なくならないのでしょう。いずれの場合でも、人が関わっているからです。いい出来事だけが起きるといいのですが、中には、「人間がすることなの?」と疑いたくなるような出来事があります。誰もが感動する話はないものでしょうか。

わたしたちは、このような出来事を見聞しながら、その環境の中で生きています。一人ひとり顔も性格も違うからこそ助け合って生きています。そして、他者から必要とされる存在になっていくのです。

これこそが「育ち」の姿ではないでしょうか。ここに自分の存在価値が評価され、その評価が自分にとっては、さらに前進していく力となっていきます。

イエスさまの弟子たちへの教育も、このようなところにあるのではないでしょうか。宣教活動の原点は、イエスさまが生きてきた生き様そのものにあります。イエスさまはそれらを弟子たちに見せてきました。語ってきました。

イエスさまは人々を愛し、人々はイエスさまを求めてきたのです。双方の望みが完璧に一致していたかどうかは別として、惹きつけ合ったのは確かです。弟子たちにもそのようになって欲しいと望まれたのです。

「あなた方は、わたしを何者だというのか」。ペトロが答えます。「神のメシアです」。イエスさまの語り掛けは、「わたしの後を継いで生きなさい」との頼み事ではなかったのでしょうか。ペトロが「了解しました」と答えたのです。

つまり、弟子たちのイエスさま理解が十分だとは言えないまでも、12使徒たちには生きる心構えを要求なさいます。「自己放棄」「隣人愛」の実践をイエスさまはその生涯の中で展開してきました。使徒たちには、これに倣うようにと言われるのです。

人びとのイエスさま評価はさまざまです。しかし、人々の大半はイエスさまを必要としていた人々です。イエスさまはそれに応えてきました。にもかかわらず、イエスさま評価は人々の間で熟さないのです。それでも、求められれば己を差し出す心を育てていくことを、現代を生きるわたしたちに、イエスさまは訴えられているのではないでしょうか。