年間第11主日(C年)の説教=ルカ7.36~8.3

2016年6月12日

神のぬくもり「人は一切れのパンではなく 愛に、小さなほほえみに飢えているのです。だれからも受け入れられず だれからも愛されず 必要とされない悲しみ これこそほんとうの飢えなのです」。マザーテレサの愛の言葉であります。

「貧しい」とか「飢えている」とか言いますと、どうしても物理的な面に、五感で感じることのできる分野でのことがらだけになってしまいがちです。いわゆる「衣食住」有り無しが表に目立ってしまいがちになります。確かにそれは大事なことです。そして、より人間らしくなっていくのも事実でしょう。

しかし、経験上、誰もが感じている他の世界もあるような気がします。「衣食住」が満ち足りていても、誰からも相手にされない、必要とされていないことは、心底貧しいことかなと思います。「他の世界」というよりも、生きている今の世界の見えないところにひそかにその姿を隠しているようです。

今日の福音に登場する二人の人物がいます。ずばり、どちらのタイプに惹かれますか。というより、どちらの方が気になりますか。

一方は、社会的にも宗教的にも、当時の見方からしますと非の打ちどころのない立派な人物です。いわゆる「模範生」です。

方や、罪の女、汚れた女とさげすまれ、社会からは、白い目で見られていた一女性です。彼女のイエスさまへの行いは、先のファリサイ派の招待者にはできなかった「おもてなし」だと言えます。

それまでの彼女の生活のすべてを、「涙で足をぬらし、自分の髪の毛でふく」行為をもって告白しているのでしょう。彼女は多くの愛をイエスさまに示したのでした。だから、多くの罪がゆるされた、とイエスさまはおっしゃいます。

表に見えないところのものを、ファリサイ派の人は取り繕い、罪の女はさらけ出します。招待者は心の内を隠し、女性は自分の罪の生活をつつみ隠さずイエスさまに伝えたのでした。

わたしたちはどちらのタイプでしょうか。神の前に「正直になっている自分」がありますか。イエスさまのわたしたちへの要求はこれだけです。わたしたちの本当の「渇き、貧しさ」から解放されるために、「多くゆるされたから、多く愛していく」本来の生き方を、わたしたちの人生としていきたいものです。