キリストの聖体(C年)の説教=ルカ9.11b~17

2016年5月29日

神のぬくもり不思議なものですね。人って、とんでもない時に、とんでもないことを思ったり、思い出したりします。みことばを黙想していましたら、なぜか、中学時代の英語の教科書なんだったかな、と。わたしのころは“ジャックandベティ”でした。日本でいえば「太郎と花子」のような、当時典型的な名前だったのでしょうか。

今日は聖体の祝日です。イエスさまの思いが限りなく込められた秘跡制定の日です。この秘跡を制定された後に、イエスさまの思いがいかばかりだったかが明らかになります。ゆるされるのであれば次のように言えるのではないでしょうか。

弟子をはじめとした民衆たちそれぞれが、弟子たちはイエスさまを捨て、祭司と長老たち、彼らに煽られた民衆は、イエスさまの存在が自分たちに益にならないと思い込んで、イエスさまに対する憎しみを具体的な形にしていったのだと。

具体的な形とは、十字架の犠牲です。その始まりは、イエスさまを取り巻いていた弟子たち、祭司や長老たちと民衆全体の、心から湧き出てくる悪が頂点に達したところにあります。こうした罪深い人間を救おうとされたイエスさまの心は、人間の心とは逆に、いつくしみと愛の頂点に達していたのです。

イエスさまの十字架は、愛(いつくしみ)とゆるしの極みであり、それを後世の人にも残されたのです。ご聖体をいただくたびに、わたしたちはイエスさまの十字架の死を告げ知らせることになります。イエスさまからは愛とゆるしのしるしであり、わたしたちにとっては、ゆるしと清めの恵みです。

あらためて、先に神から愛され、ゆるされている現実を日常の中で思い起こしてみたいですね。イエスさまの受難は、これでもかという人間の「いじわる」「醜さ」「否定」を受けても、意に介せず、人をゆるし続けられた出来事でした。神に愛されているから人を愛し、ゆるされているから、ゆるすことにはこだわりはない生き方を実現させたいです。生きる源泉はここにあります。

キリスト者としての「典型的な」生き方を、今日の聖体の祝日に当たり、イエスさまにねがいましょう。「太郎」と言えば「花子」と響き合える多くの人との人間関係を実現させたいですね。