復活節第4主日(C年)の説教=ヨハネ10.27~30

2016年4月17日

神のぬくもり「あの方は何事にも熱心な方ですよ」と言われるにふさわしい方は、たくさんいらっしゃると思います。「熱心」という時に何を基準にして考え、判断しているのでしょうか。それは一人ひとり違うような気がします。その人が育ってきた環境により、性別により、また、最も大きな要因として「信仰」がその違いに影響を与えているような気がするのです。

わたしたちが日常生活を営む上で、暗黙のルール、約束事があります。それを「社会常識」と言っているのでしょうか。本来はより良き人間関係を構築するために、互いの存在を価値あるものとするために有益なことなのでしょうが、現実的には、時には邪魔になったりすることがないとは言えません。

なぜなら、自分の世界の中で解釈し、運用しているからではないでしょうか。さらに、その「常識」そのものが発展変化していかない現状があります。「昔は○○だったのよね」と、昔のことが歴然と生きているのです。

いつの日か、ことばは自然と入れ替わりがあります。流行語なるものも、全国の話題として取り扱われるようになりました。「死語」となった言葉にもいいものがあります。復活の日が来るのでしょうか。

ところが、「信仰」はどうでしょうか。みなさんはどのように感じておられますか。やはり不可解感、束縛感を感じられますか。イエスさま時代のユダヤ人たちにとって、イエスさまの言動は、不快感以上に、彼らが生きてきた世界観を狂わしてしまうほどのショッキングな出来事だったのです。

先祖が神から示された「啓示」に忠実になろうとすればするほど、本来の道筋を逸脱していったということができます。「啓示は発展していく」ものなのです。彼らはこのことに気付いていませんでした。それは同時に、その時その時のわたしたちにとって、心地よく、安心できるメッセージ、神からの「啓示」であります。

今日の善き牧者の話は、語り継がれてきた「メシア、救い」の中身が明らかにされる話です。つまり、父と子の交わりの中にわたしたちを招き入れること、その実現がメシアの役割であり、救いの実現であるといわれます。新しいメッセージに耳をかすことなく、神の愛に気付くことなく、それでも「わたしと天の父、すなわち、わたしたちは一つである」と言って、わたしたちを招いておられます。

わたしたちの信仰も成長していくのです。その姿を見たいものです、・・。