年間第4主日(C年)の説教=ルカ4.21~30

2016年1月31日

神のぬくもり「故郷」という言葉は、だれにとっても、何かを呼び戻してくれる懐かしい響きを持っています。と言いつつも、ある東京の方に話したところ、「皆が故郷に帰るという時にはさびしい気がする」というのです。どうして?と聞きますと、自分は生粋の東京生まれなので、皆がいう「故郷」がないんです、ということでした。でも、東京の方が地方都市に行って生活していれば、東京は「故郷」になるのではないでしょうかね。やはり「故郷は遠くにありて想うもの」なんでしょうか。

その故郷に戻ってみると、幼かったころの遊び場所、駒にメンコにビー玉に明け暮れた昔がよみがえってきます。幼友達にも再会できます。黙っていても自分を受け入れ、どこに行っても「我が家」といった親しみさを感じることができます。先輩、ご年配の方にしても、知り合いがいて違和感がありません。安心できます。

そのような故郷は、イエスさまにとってナザレでした。そして、イエスさまのいい評判はガリラヤ地方一帯に広まっていたはずです。わたしたち人間の常識から言いますと、イエスさまにとってまさに「故郷に錦を飾る」帰郷だったはずです。しかし、故郷の人々はそのイエスさまを拒否します。どうしてでしょうか。

ひとことで言えば「食い違い」が、生活感覚の違いがそうさせたのでしょうか。ナザレの人びとに聞こえてきたイエスさまの評判に、多少の違和感を覚えたのでしょう。日本でもそうですが、「故郷」の人々の繋がりは、同じところに家を持ち、土地を持ち、共に農作業をし、お祭りを準備して実行している中で深まってきた、いわば、地縁血縁の関係が主であるといえます。

話の中で、イエスさまは旧約聖書のエピソードを取りあげます。エリヤとエリシャの話です。この二つの奇跡物語は、人の情の機微にいい話です。が、二つとも異邦人に対して行われたというイエスさまの指摘に、ナザレ人はこころを頑なにしてしまったのでした。

彼らとイエスさまの食い違いは、生き方の中心にあるものが違ったところにあります。イエスさまは個人の良心的な生き方を呼びかけます。正確に言えば、故郷に戻ったイエスさまが、故郷の人々の生き方(地縁血縁)に浸ることを拒否したことに、「食い違い」が始まったといえます。故郷の人々への新しい呼びかけでした。ここに、すでにメシアとしての歩みが刻まれていたといえます。神中心の生き方が完全に拒否された瞬間でもあります。今のわたしたちの生活はどうなっている、・・・?!