年間第2主日(C年)の説教=ヨハネ2.1~11

2016年1月17日

神のぬくもり年が改まって年度が新しくなったのに、日常の営みは普段通りです。当りまえのことといえばそれまでですが、新年度初めから嫌な事件、不思議な出来事がありました。その一つに「アイスマン、ピロリ菌感染」というコラム記事でした。

「1991年に見つかったミイラ『アイスマン』がピロリ菌による胃炎を患っていた可能性があるとする研究結果を、イタリアなどの国際研究チームが8日、米科学誌サイエンスに発表した」というものです。正月気分が抜けたとは言いましても、お祝い等の食事で満たされたわたしたちの胃袋は、今から少しずつ悲鳴を(?)あげてくるのでしょうか。5300年前の生を生きたこの男性も「グルメ派」だったのでしょうかね。

それにしましても、正月はなんといっても「家族団欒」でしょう。お母さん料理のおせち、餅、ぜんざい等、郷里ならではの料理の数々。その食卓を囲んだ家族の久しぶりの語らい、昔も今も変わりはありません。慶事においては、それに見合った料理が提供されます。

今日の福音のカナでの婚宴は、いうまでもなく喜ばしいひと時です。こうした喜ばしい席で、「受肉されたみことば」のこの世とのかかわりが紹介されています。「みことばは人となり、わたしたちのうちに住まわれた」のです。婚宴に招かれたイエスは、人の悲しみ、苦しみだけにかかわるのではなく、喜びにもかかわるのです。何故って、わたしたち人間の生の営み全体が神の恵みを求めているのです。神の息がわたしたちに向けて止まると、わたしたち自らの存在そのものがあり得なくなります。いうことは、日常どんなに些細なことであっても、イエスさまの前に差し出すことを遠慮してはいけないということでもあるのです。

「ブドー酒がなくなる」ということはごく日常的な現象です。マリアさまは敢えて、イエスさまにこのことを伝えます。何故って、現代でもそうですが、祝いの席において酒は欠かせないものだからです。

水がブドー酒に変わったことは不思議なことです。このことは、人間の営みの次元のものが、イエスさまのかかわりによって恵みの次元にまで引きあげられるということを物語っています。人のすべての営みに神がみずから関わってくださっている、ここに些細なことでも偉大なことである根拠があります。「わたし」の生に無駄はありません。