聖家族(C年)の説教=ルカ2.41~52

2015年12月27日

神のぬくもり今年最後の日曜日を迎えました。その日が、「聖家族の主日」であるということは、わたしたちに何かが訴えられているような気がしてなりません。わたしたちの日常は、家族に始まり家族に終わります。しかも、現代では家族で共に過ごす時間が、あまりにも短く、語らいの機会が少なすぎるのが現実です。何かしら「本来の人間の姿」が失われて行っているようでなりません。

「本来の姿」とは何を称して言うのでしょうか。「神に似せて創られた」存在であるということ。それは、善を求め悪を退けることであり、美しいものに惹かれ、醜いものには拒否反応し、自分と同時に人をも大事にしていく存在者であるということはできますが、抽象的であり、評論の世界を脱していないといわれそうです。別の言い方をしますと、それだけ複雑な出来事が絡み、大事であるがゆえに、一人ひとりが悩んでいるといえます。

しかし、確実なことかなと思えることがあります。人は人との交わりを通して「その人らしく」なっていくということです。その人の「本来の姿」があるのであって、一般的に「人の本来の姿」を云々できないのではないかと思うのです。家族内の兄弟姉妹を見てもわかります。同じ親から生まれた子どもでも、違いがあり、それがその人足らしめています。

いうまでもなく、その土壌は家庭内で起こる出来事、親子、兄弟の触れ合いの中で培われていきます。今日の福音に現れるイエスさまの姿はどう説明されるのでしょう。ヨゼフとマリアのもとで育ってきたイエスさまは、こんなにまで「冷たい」人に育ったのでしょうか。「わたしが父の家にいるのは当りまえでしょう」という言葉は、両親も分かりかねるほどに、人としては冷酷な言い分に聞こえます。イエスさまの育ちの歴史がこんなものだったということでしょうか。

いや、こんなことを言うことがゆるされるかどうか、人間的に言えば「親離れ」の現象ととらえることができるような気がします。両親が、子どもの言い分をわからなかったとしても当然とも言えます。いわゆる、子どもが成人し、自分の道を歩み始めたという現実が目の前に展開し始めたのです。親とは別の人格者である子どもが、親とは別の人生を歩み始めたのでした。ある意味、親にとってはつらい現実ではあります。別の言い方をすれば、子どもに託された親とは違う使命に目覚め始めたと言えるでしょうか。

いつでも「家庭」は人の存在すべての根幹であり、苗床です。イエス、マリア、ヨセフの聖家族はわたしたち人間家族の生きるすべての見本であり、源泉です。