待降節第2主日(C年)の説教=ルカ3.1~6

2015年12月6日

神のぬくもり「神さまに文句を言うなんて、もっての外だよ」とよく言われたものです。しかし、年を重ねていくたびに、この「文句」の祈りが、自分にとって、一番追い詰められた時の祈りとして、神の前で、とても素直になれるような気がするのはわたしだけでしょうか。

詩編の中に、「嘆願の詩編」があります。これは、作者の心からの叫びの祈りでしょう。その表現には「こんな言い方もあるの、・・」といいたくなるような激しい真に迫った表現があります。

今日の福音では、生きるどん底にあったユダの民への、神からのゆるしを告げる喜びの知らせが述べられています。当時、ユダの人々はバビロン王によって国土は焼かれ、荒廃し、心の大きな支えであった神殿も破壊されたのです。当然のように家族は引き裂かれ、奴隷としてバビロンに連れていかれ、苦役に服していたのです。ユダヤの人々のバビロンでの生活は、大変苦しいものでした。

しかし、バビロンでの囚われの生活は、彼らに反省の機会となったのでした。つまり、「囚われ」に至るまでの彼らの生活ぶりに思いをはせ、それが、自分たちをエジプトの奴隷状態から救い出してくれた、神の誠実さに対する裏切り行為であったことに気付かせてくれたのです。

一切の楽しみと自由を奪われた今、苦悩のどん底にいる自分たちに涙します。神にゆるしを求め、願わなくてはいけない存在である自分たちに気付き始めたのです。そして、ゆるしを求める心からの叫びの祈りがささげられるようになりました。その祈りに応えてくれた神からの答えが、今日のイザヤ書の言葉です。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。すべての谷は埋められ、・・・すべての人が神の救いを見る」。

すべてが神主導で整えられ、導かれ、希望の道が荒れ野に敷かれるのです。このことから見える神の姿は、神は必ずおいでになるということです。わたしたちからどんなに裏切られ、無視されたとしても、神のわたしたちへの愛の情熱は消えることがないということでしょう。しかし、わたしたちは、頻繁に、このことを日常の中で忘れてしまっています。自分の楽しさ追及が優先されています。落ち込んだ時はすぐ「愚痴る」のです。

それでも、当時のユダヤ人と同じように、「自分はゆるしを必要とする存在である」という謙虚な姿を大事にしていけますように、・・。