待降節第1主日(B年)の説教=マルコ13.33~37

2014年11月30日     

イエスの心きょうから、教会暦の新しい季節が始まります。いわば、教会の新年です。一つの節目ですね。新しい年もまた、人間の救いの歴史を、経過を典礼を通して味わい、実践し広めていきたいものです。

過ぎてしまいますと、一年は速いものです。もう待降節なんですね、という会話になってきます。気分を新たに、心も新たにきれいに掃除(ゆるしの秘跡)をして日々を送りたいです。なんでもないいつもの通りの生活リズムなのに、昨年とは違った新しい色を添えていきたいですね。

「目をさましている」ことは、どんな時にも大事なことでしょうが、今年度の典礼暦は、来たるべき救い主との出会い(到来)を「目をさまして」待つように勧めて、始まります。その一つは、主の誕生を準備し、もう一つは、イエス・キリストの再臨を意識して準備する時なのです。教会の典礼において、主の降誕を記念して祝うことの意味は、過去の誕生の出来事の記念を祝いつつ、未来の主の再臨を希望のうちに待つというところにあります。

兎にも角にも、現代にあって、特に人とのかかわりの中では、「待つ」ことは日常たくさん体験することです。人の誤解を解く時、対立した人と和解をしようとするときは、忍耐をもって待ちながら努力します。そうです。「忍耐する」ことが「待つ」にはついて回ります。

何かのものごとを「待つ」という時、二通りの待ち方があるように思います。自分にとって好ましいことを待つ時と、その逆の時がそうです。この繰り返しが絶えず日常生活の中でなされているのではないでしょうか。また、重要なものごとであれば、それだけの前準備が要求されます。そして、事実しっかりと準備するものです。それと同じような周到さをもって神に出会う準備をしているでしょうか。

今日の福音は、だから「目をさましていなさい」としつこく(三回)呼びかけているのです。それも、不安や恐れなしに、喜びと希望をもって待ちなさいと語ります。

「目をさましている」状態は何を意味しているのでしょう。その昔、先輩神父からよく言われたものです。「自分がよき死を迎えられるように、若くて元気な時から祈り願い続けなさい」と。毎日が償いの連続ですし、言動の一つ一つが償いとして捧げられ、その延長に、自ずと死を迎えることになれば、・・・。完璧な準備はあり得ないでしょうが、十分な準備になるのではないでしょうか。

イエスさまのこころの琴線に触れ続ける日々でありたいものです。