王であるキリスト (B年)の説教=ヨハネ18.33b~37

2015年11月22日

イエスの心わたしたち人間は、基本的に、自分の外に向かって躍動しながら成長し、それぞれに役割を果たしています。その出発点になっている場が「家庭」でしょう。しかし、「一家団欒」「ほのぼの家族」なんて言葉も死語に近いものになってきました。本来だと「わたし」の「今」は、この家庭で生まれ、育ち、あらゆる基礎的な生き方を学んだ場であるのに、どこかに置き忘れてしまってはいないか、・・だからこそ、思い起こして「原点」にかえってみることも必要でしょう。

家庭は「ゆるしを与えることと互いにゆるし合うことを学ぶ修練の場」のようであると、教皇フランシスコは言います。わたしたちは互いの弱さや利己主義がもたらしている傷を皆が抱えています。生きることの中心が「この世」であり、わたしたちの心を動かしているものが虚栄心であったり、野心であり、また、快楽であったりするからでしょう。「傷を癒やし、争いを解決する簡単な秘訣があります。お互いにゆるしを願ってから一日を終えることです。夫と妻、親と子ども、・・の間で仲直りをしておくのです」と教皇は勧めています。

今日は「王であるキリスト」の祝日です。そのキリストは「わたしは真理についてあかしするために生まれ、またそのためにこの世に来たのである」と、ピラトの前で正々堂々と宣言なさいます。いわば、「真理」のためにいのちをかけていると言われます。

福音書に登場する人たち、ピラトとユダヤ人もわたしたちと同じように、(?)「真理」とはほど遠い生き方をしていることをイエスさまに暴かれてしまっています。彼らがそのいのちをかけて守ろうとしているのは、自分たちの名誉であったり、地位、繁栄です。あくまでも、「利己主義」です。したがって、活動の原動力は、自分たちの野心、欲望、感情が中心にあり、やり方がずるいのです。「ずるがしこさ」が成長していくのです。わたしたちもそうならない保証はありません。

ピラトは何度もイエスさまをゆるそうとこころでは思いつつ、ユダヤ人から圧力をかけられ、自分が確信するままに行動できないのです。身の危険を感じると、真理の世界ではなく、虚偽の世界と手を結んでしまいます。自分の良心の声に耳をふさいでしまうのです。

わたしたちも日常、同じような体験をしているのではないでしょうか。わたしたちが、よってもって立っている「軸」に戻れ、と、今日のイエスさまはおっしゃっているようです。「わたしが王である」といって、わたしたちを招いておられます。