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年間第33主日:救われる道は神のあわれみへの謙虚な信頼、信仰

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年間第33主日(B年)の説教=マルコ13.24~32

2015年11月15日

イエスの心何も今さら申し上げることでもありませんが、日本人は「聖書」を手にする人が多いと聞きますが、「キリスト教」にはいまいち馴染めない、という現実。こうした現象をどう受け止めればいいのかなと考え込んだ時期がありました。現実的に、聖書のこと、その教えについてはよく知っている人は多いようです。「信仰する」とは、日本人にとってどのようなことなんでしょうか。

物事にはすべて、終わりがあります。聖書にも「終わりの時」という言葉が出てきます。今日の福音書は「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされるであろう」と描写しています。宇宙全体の終わりの時と受け取ることもできるでしょうが、しかし、聖書が宇宙の終わりの日のことを語ろうとしているとは考えられません。

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むしろ、わたしたちへの目覚めを促しているといえないでしょうか。「終わりの時」が意味するのは、「白黒をつける時」でもあるからでしょう。何について決着をつけるのでしょう。

今、わたしたちが期待し、頼り、自分の生活が支えられているものはいつの日にか消えてなくなるものであること、その現実に目覚めなさいという呼びかけが込められています。そのうちに、すべてを見通される神だけが残り、わたしたちはその方の前に一人で立たなければならないのです。

そして、今までは誰にものぞかれないですんでいた心の奥をも、神の前で明らかにされます。隠そうと思っても隠し切れない自分の醜さや弱さも暴かれてしまいます。そして、その言い訳もできないのです。いわば、わたしの生涯の総決算がなされます。そのことに目覚めなさい。それが「終わりの時」なんですよと、イエスさまはおっしゃっているのでしょう。

誰も「その時」から逃れることはできません。ただ救われる道は、神の憐れみ、寛大な受け入れに対するわたしたちの謙虚な「信頼」「信仰」です。神の恵みの広さ、やさしさの深さ、人への愛の心が、最後になって冷酷な心に変わるわけはないでしょう。「いと小さき者の一人でさえも滅びることを天の父は望まれない」とイエスさまは教えられました。わたしたちは、ありのままの自分を差し出すことだけです。

最後の時に、そうできますように元気な今だからこそ、お願いしましょう。

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