諸聖人(B年)の説教=マタイ5.1~12a

2015年11月1日

イエスの心今日は諸聖人の祝日です。諸聖人とは、言うまでもなく「大きな苦難を通って」天に挙げられた人々を指します。そして、神の子どもたち、わたしたちも諸聖人の列に加えられる存在者なのです。

幼いころ、「天国」ってどんなところ?と母親に聞いたことがあります。子どもが、信仰上の内容に関心を寄せた時に、関心を示した内容の話をしてあげることが、卑近な、やさしい「信仰教育」ではないかと思います。親がそれまで生きてきた体験の中から、話せる内容は十分に持ち合わせているのではないかと思うからです。

因みに、わたしの母親はこう言いました。「天国はね、お前が大好きな果物、バナナ、リンゴの木があり、きれいな、たくさんの花々が咲き誇っているところだよ」と。子ども心をわくわくさせ、行ってみたくなるような雰囲気を提供してくれます。なんだか、明るい楽しいところだな、ということを感じた覚えがあります。小さい頃の出来事は強烈な印象とともに残ります。

なんといいましても「幸いなるかな」という言葉が何回となく出てきます。天国は実に「幸いな」ところなのです。しかも、わたしたちのありのままの、普通の状態が「幸い」なのです。神が幸いにしてくださるのです。神が無条件で、わたしたちを愛し、祝福してくださっている宣言が「幸いなるかな」なのです。そして、その対象も無制限です。

「人々はさまざまな病気や苦しみを抱えた者、悪霊に取りつかれた者、・・あらゆる病人をイエスのもとに連れてきた。イエスは彼らを癒された。多くの人々がガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダンの向こうから来て」いた人々に向かって幸いの宣言なさったのです。

イエスさまは、彼らの苦しみ、悲しみに共感なさることがおできなになるのです。その証が「幸福宣言」です。その言葉が「幸い」なのは、イエスさまがおっしゃるからです。言葉の重みは、表現される言葉にもよりますが、「誰」がおっしゃるかによってその深さ、響きが違ってきます。その最高のお方は「神」でしょう。だから、信仰を持つ者には、表には出てこない「柱」がたっています。そうでない者はどうなるのでしょう、・・。